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青森県三戸郡五戸町豊間内地蔵平。地蔵平の地蔵様。
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石灯籠一対(昭和47年3月24日)
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近年、地蔵平付近は工業団地が並び、運動公園や統合中学校ができてすっかり変貌し、昔のおもかげが全く無くなったそうです。
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両部鳥居。
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地蔵尊堂管理所。
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明治天皇御野立所。明治14年8月25日の明治天皇東北巡幸の際、八戸から五戸に到着する途中、七崎の方からトンネルの上を通り、地蔵様の北側を通過(一行398人、馬232頭)。その際、地蔵平の御野立所で小休止されました。給仕役には工藤定四(16歳)、三浦七五郎(15歳)、三浦道太郎(13歳)の3人が選ばれています。
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地蔵平のことども(青森県知事竹内俊吉)。
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裏面碑文…『凡そ八百年前の昔を顧みれば、地蔵平のあたりは、単純な原っぱが限りなく広がり、釣鐘人参や、紫根が自生する紫野にすぎなかったと伝えられている。そして、三百年ばかり昔の藩政時代には、山林、原野は見守山と唱えられて、五戸代官所が管轄し、御蔵肝入の見守るところとなり、そこに株、苅敷の用益慣行が出来て入会地となった。享和元年(1801)のこと、時の分限者江渡又兵衛の使者が、主家の用達の途上、吹雪のため此の地に斃れたので、これを憐れみ地蔵尊が建立された。かくして此の地一帯は地蔵平と呼ばれ、地蔵信仰もひろまった。明治六年七月、政府は地租改正の条令をを公布し、山林、原野の地租負担者を決定するためその所有権を確認し、証拠のないものはすべて官有地に編入した。このため、豊崎地域の総代は先達となって官有地第二種の借地申請をなし、地蔵平を開発する端緒をつけた。明治二十七年七月以降には、豊間内郷百名の人々によって、御料地借用願が出され、牛馬百頭以上の放牧事業が始まった。大正十年には、御料地の払い下げを受け、これを共有地として畑地を起し、森林の造成をするなど、新たな農事経営を行なった。このように、地蔵平開発の構想は、我等の長く受け継いで来た道標であるが、昭和三十九年、政府による八戸地区新産業都市の指定に伴い、全く新しい局面を迎えることになった。即ち近代的な産業都市開発の基本計画によって、三十二万二千二百九十九平方メートルの地蔵平は、内陸工業地の拠点となり、装いも新たに田園都市として生れ変る日も近いであろう。そして、かがやかしい産業の町の将来が約束され、新しい像の五戸びとが生成して来るであろう。ここに地蔵平開発の新しい門出に当り、此の地の由来を誌して、碑を建立し、後の世のため永遠の記念とする。昭和四十三年五月三日 撰文 元青森県副知事 青森県立図書館長 横山武夫』
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江戸期以降の豊間内村についてです。三戸郡のうち。盛岡藩領。五戸通に属します。慶応3年の「五戸通代官所惣高書上帳」によりますと給人は楢山益人・松井誠蔵ほか6人。村高は「正保郷村帳」179石余(田132石余・畑47石余)、「貞享高辻帳」224石余、「邦内郷村誌」377石余(うち給地246石余)、「天保郷帳」377石余、「天保8年御蔵給所書上帳」351石余(御蔵高103石余・給所高248石余)、「安政高辻帳」302石余、慶応3年「五戸通代官所惣高書上帳」351石余、「旧高旧領」351石余。「邦内郷村志」では家数65。本村を除く集落別内訳は志戸岸2・岩脇14、馬数85。「本枝村付並位付」によりますと、位付は上の下、家数19。集落別内訳は本村12・岩ノ脇7。ほかに志戸岸村13。「仮名付帳」では枝村に志戸岸村が見えます。石盛は上田1石2斗・下々田6斗、上稗田7斗・下々稗田4斗、上畑9斗・下々畑3斗。当村北西の丘陵地は地蔵平と称し、五戸から七崎を経由して八戸に至る街道と農村を経て櫛引に至る街道の分岐点にあたり、寛政5年の追分石と享和元年建立の地蔵像があります。この付近では道に迷うことが多かったといわれており、そのため遭難者の供養道標として建立されたといいます。岩ノ脇には七崎方面の灌漑に利用された津島堰の取水口があります。明治元年弘前藩取締。以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、同4年青森県に所属。明治初年の戸数は本村37・岩ノ脇26。同9年頃志戸岸村を編入。同年豊間内小学が発足。同12年の「共武政表」によりますと、本村の戸数41・人口314(男188・女126)、学校1、水車1、馬29、牛95、志戸岸の戸数41・人口281(男160・女121)、牛4、馬85、岩脇の戸数23・人口159(男90・女69)、牛4、馬33。物産はともに米・麦・雑穀・麻糸・鳥類。同22年豊崎村の大字。
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鳥居。地蔵尊堂の周囲には昭和47年4月23日に五戸町連合青年団結成記念植樹の桜の木約50本があります。
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石灯籠一対。
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狛犬一対。
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地蔵尊由緒…『【御祭神】地蔵尊【祭日】7月第4日曜日【御神徳】無病息災・旅行安全・安産祈願・豊作祈願・商売繁昌・学業成就【沿革】当地の分限者酒屋又兵衛の蔵廻りが年の暮れ八戸の取引先西松屋へ用向き途中岱嵐(吹雪)に遭遇し、道に迷い凍死せるを翌春3月24日この地に発見。主人この死を深く悼み享和元年9月24日、地蔵尊を建立し、冥福を祈り道標としたのである。爾来民俗宗教に結び霊験灼にして地方の信仰をあつめる。【氏子地域】大字豊間内地域。五戸町文化財に指定、平成10年3月26日地蔵尊管理委員会』
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石灯籠一対。
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堂宇は境内より高い場所に鎮座。
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石灯籠一対(大正9年旧6月24日、上北郡大字滝沢字横倉、納主今泉倉松、五戸町石工小笠原末吉)
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狛犬一対(明治42年9月19日生、昭和55年7月24日、志戸岸、高橋トキ72才記念)
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地蔵尊堂宇。地蔵様ができたのは享和元年9月24日。
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堂宇は三浦牧場の三浦源五郎が大正5年に奉納し、昭和48年には浅水の北上万次郎が苦心して六角堂を新築し、その中に地蔵を納めました。別当三浦万三郎。
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大正時代に地蔵様が流行した頃、五戸警察署長工藤某が「迷信であるから鳥居を取り除け」と三浦牧場主に迫りましたが、信仰の自由をたてにして反対し、とうとう罰金2円をとられ、その上、お堂には火をつけられて焼き払われたといいます。信仰の篤い源五郎は「いまに見ろ、罰が当たるから」という矢先に、署長の妻女が頓死したといいます。
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「地蔵菩薩」(願主佐々木克之、佐々木公子)
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地蔵尊堂内。
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「流れる五戸川」より…『お堂の中に小さな地蔵がある。大正十三年十和田の梅田佐太郎が納めたもの。六角堂に入らない前は目や胸に一ぱいはり紙をしていた。この地蔵さまは道の番人で、お医者でなかった。地蔵は寛政三年(1791年)五戸地方二十四ヵ村がその台座の石に「右八(や)わた」「左八ノ戸」と彫り付けて野中の道標として建立したものであった。方向は豊間内の方を向き、五戸の方は向いていない。病気を引き受ける神様で、村人が自分の好きなようにむかせておがんだわけだ。地蔵の由来記は-。五戸の江渡又兵衛は酒屋を営み、手広く商売を続けていたが、江戸中期の晩冬に店子の丈夫な大男に大金を持たせて八戸の西松屋に届けるようつかわした。五戸から出発した角力のような若者は追分の分岐点から大渡、そして坂道を登って地蔵平の放牧場に出た。その日は十二月二十七日で大雪のため道路がはっきりしなかった。大金を持った若者は又兵衛の家には帰らなかった。江渡では若者の出来ごころで大金を持って逃げたものと思い、追わなかった。しかし、雪だおれのため翌年三月二十四日、大金を持ったまま死体となって発見された。その場所が地蔵様の所だったので、死体を埋め道の標として後日、地蔵さまを又兵衛が建てた。また、八戸に用たしに行ってこの場所で死亡し、亡霊になって「死んだ場所に地蔵様を立ててくれ」という一説もある。また、地蔵尊は享和元年(1801年)九月二十四日建立された-の話もある。なお、この地蔵尊の百八十年祭が五十六年七月二十五日、信者ら二百人が集まって祭りを祝い、楽しんだ。この日は、豊間内、志戸岸、岩の脇の住民のほか、遠く宮城県、八戸市、上北郡からも参加、野外ステージ周辺に陣取りおでん、アイスキャンデー、ワタアメ、花火の売る出店も出て、記念祭のムードを盛りあげた。川崎嘉保町長らが「家庭と地域発展の守り神」の挨拶、祝宴に入った。野外では俵積み唄や南部芸能五戸支部の会員が得意の踊り、民謡の披露をして喜びの一日をすごした。』
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隣には旭日菩薩様。台座部分には「奉納種市雅論 岩ノ脇 昭和60年11月24日」とあります。
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旭日菩薩がわかりませんが。平成3年9月29日朝9時。
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堂宇の外へ。
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小祠。
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稲荷堂かな。
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追分石(※上記の六角堂に入る以前の地蔵尊台座です)。
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「寛政三年三月廿四日 右八わた 左八ノ戸」
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地蔵尊レストハウス。
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金毘羅大権現碑(文久3癸亥年8月吉日、高さ2.1m・幅70cm)。願主及び寄進者名は蔓植物で読み取れず。
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石殿。棟札は読み取れず。
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上部に「十和田山…」と刻む碑(高さ110cm・幅50cm)。下部は微妙に読み取れず。紀年銘は金毘羅大権現碑と同じ文久3癸亥年8月吉日で、願主及び寄進者名は読み取れず。
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地震観音。河北新報社の浄財により建之(五戸町長川﨑嘉保、建立委員長三浦吉三郎、副委員長小泉惣七、委員菊池金太郎、同中川原松三郎、同三浦兼吉、同豊川譽市、同木村栄司、同江渡文一。施工(株)大西組)。
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殉難者…『志戸岸高橋たま75才、同工藤こと50才、同夏堀萬太郎42才、同赤坂レミ33才、豊間内三浦みゑ73才、同三浦トヨ65才、同小山田さよ42才、幸ノ神川村和雄33才、同川村キヨ33才、越掛沢立花勲24才、四五市大久保夕子59才』お若いですね…
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小さな観音像の頭もありました。
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慰霊のことば…『昭和四十三年五月十六日午前九時四十九分のころ青森県を中心に東北、北海道の一帯は激しい地震に襲われた。1968年十勝沖地震と名づけられたこの地震によって五戸町の受けた被害の総額は二十四億八千余万円の巨額に達した。家は倒れ道路は割れ山は崩れ田畑は埋没し鉄道のレールは曲がり電信電話もまた絶えた。まことに恐怖と不安の日であったわけても忘れられぬ悲しみは志戸岸、豊間内、幸ノ神越掛沢、四五市等の地区において十一人の尊い生命が失われたことである。この人々はみな一家の柱と頼むところであり五戸町にとってはまた替えがたい一人びとりである。町の復興は町民の協力によって日に日に進みつつあるけれども失われた生命を再びこの世に呼ぶ術はない。傷ましくもまた悲しい限りといわねばならぬ。我等はただこの人々の殉難の死を悼み心からその冥福を祈ってやまない。ここに亡き人々の思い出多いところにみ佛を建立し町民一同の慰霊の真心をささげる。時に昭和四十四年八月十六日 題字青森県知事竹内俊吉 文撰元青森県副知事横山武夫 鈴木金太郎謹書』
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春汀碑「自己の意思を以て生涯を一貫するものは永久の生命を有する人物である 春汀」(「鳥谷部春汀他界して70年。五戸町の名もない青年たちが郷土の先人の遺した文学遺産をみなおそうと運動を起こし地域の温かい心に支えられ、ここに五戸町が生んだ明治日本を代表する人物評論家春汀を讃え、後世に伝るべくこの碑を建立す。昭和53年12月春汀研究五戸青年会」)
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碑文「鳥谷部春汀(銑太郎)」…『慶応元年三月三日、父鳥谷部忠治母りわの長男として蛯川に生まれる。明治九年奥羽御巡幸の折、陪従の有栖川熾仁親王に五戸小学優等生として歴史の一節を講じ、その才あるところをみせる。のち母校の助教、青森専門学校(農芸科)を経て十五年に上京独学苦学、十七年病を得て帰郷し、再度母校の教師三年、二十一年には早稲田に学び英語普通科、政治科をそれぞれ卒業、島田沼南に文才を認められる。明治二十六年松尾ことと結婚、毎日新聞に入社、近衛篤麿の知遇を得て評論家としての文筆活動の地歩を固める。博文館、報知新聞主宰、東邦協会常議員を経て、三十五年再び博文館で「太陽」主宰、明治四十一年八月大町桂月を十和田湖に誘い全国一の景勝地としての礎をつくるが、同年十二月二十一日、四十四歳で没す。』
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狄嶺碑「狄嶺詞碑家樹訓 農乗は一株の菩堤樹也 場はこれを生ずる大地也 家稷はその樹幹也 農行はその根也 農魂はその樹性也 農想は花と開き 農道は実を結び 枝葉繁茂欝々参天の大樹たるは農教也 如是日々夜々培養の功を怠らず 願くは各人の農乗菩堤樹をして 中途に枯死せしむるなくんばよし珍主別して曰く、枯木花開、咄 昭和十九年頭 農乗少室 狄嶺」
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『江渡狄嶺翁は行ずる領域としての場を創見し独自の「家稷農乗学」を体系づけただけでなく哲学としての場論的思想を「特称拠場論」まで到達させまたそれらを原理的根拠に農政の根元を問い糺す「綜業農制論」を打ち出すなど実践的農民思想家としての面目を遺憾なく発揮した。常日頃翁の思想信条の継承発揚にとりくむ狄嶺会五戸支部は近代「日本の思想家」としての業績を顕彰し併せてその生誕百周年を記念するに当って県下の狄嶺会員や五戸町民その他の人びとへ呼びかけて拠金を仰ぎこのゆかりの地を卜して題言のような詞碑を建つ。昭和五十七年五月三日狄嶺会五戸支部 八戸市番地石材工業㈱謹製』
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