平川市尾崎浅井。延暦年間、田村磨将軍東征の折、当地に寄って熊野権現を祀って社殿を建立。後に尾崎三郎右衛門(尾崎喜蔵)が領主となり社領を付して社殿建立。寛永年間、津軽三代藩主信義公が鷹狩の折、当社へ参詣の記録を残します。安永5年、代官一戸半右衛門が津軽越中守信寧公より、尾崎組護穀神として伊勢内外両宮の御麻と鳴弦御祈祷の御札を奉納。領主尾崎氏は1300石の分限。当初大光寺城の幕下で、後に大浦為信に属しました。慶長5年に関ヶ原合戦にて西軍勝利を予測して、石川城代板垣兵部らと反乱を起こしましたが失敗に終わります。尾崎は一騎打ちの末討ち取られ、一族は滅亡したといわれます。神社近くの尾崎城址は農地となり、その一角に所有者の中島家で建立した尾崎城址の碑が建っています。※無念で亡くなった喜蔵の怨念の火玉が現れるとの言い伝えがあります。

3度目の紹介になります。由緒等については以前の記事も参照ください。
前回の記事
社号標(明治34年4月15日)

奥野掾太鼓橋金欄旗壹迎御宮新橋寄附人名碑。

忠魂碑(昭和35年4月10日尾崎遺族会建立、石工黒石市山形町斉藤幸次郎)

石灯籠一対(支那事変論功行賞記念)


上部が欠損している石碑。

鳥居と両脇の石。
狛犬一対(紀年銘無し)
土俵と御神木の大欅。
日露戦役紀念碑(明治38年6月15日村中)

土俵及び御神木付近の石。




『社伝に依ると、往古草創より幾星霜を経て、延暦年間、田村麿将軍東征時、当地に寄り熊野権現を祀り社殿を建立す。のち、権現紀伊へ還御し一時中絶す。文治年間、現宮司の祖嘉昌院一日奇瑞を感じ堂宇再建す。其の後、尾崎三郎右衛門領主となり社領を付して社殿を建立。寛永年間、津軽藩主信義公鷹狩りの折り、当社へ参詣す。宝暦年間、社殿を改築す。安永五年 (一七七六)、代官一戸半右衛門をして津軽越中守信寧公より尾崎組護穀神とし、伊勢内外両宮の御麻並びに鳴弦御祈祷の御お札ふだを奉納される。又、七寸四方の御樋代を安置、御祈祷執行の上、組中渡御を例とした。明治四年村社になる。同十四年、本殿拝殿を新築す。同四十四年、現鎮座地に移転す。昭和三十五年、拝殿改築、平成三年台風十九号で本殿破損、境内樹木悉く倒伏、平成四年本殿新改築し、緒施設修復、境内杉植樹す。同十三年には朱の大鳥居を建立し現在に至る。』
狛犬一対(明治43年5月15日)
狛犬一対(明治24年5月15日、尾嵜村小山内治五兵エ)
石灯籠一対(明治19年6月15日)


御神馬一対(皇紀2600年記念奉納)


観音堂。

石灯籠一対(昭和8年4月15日)


手水舎。

手水石(大正7年12月15日)

社殿。御祭神は誉田別命、伊弉諾命、伊弉冉命。例祭日7月15日。代々石山家が宮司。ラーメン研究家で神官の石山勇人さんの家系。なお、石山家は尾崎喜蔵と親戚で、7代目が喜蔵の三男で中興開基。
拝殿向拝。


蟇股。
神額。


拝殿内。中央両脇に木造の立派な右大臣左大臣があります。その手前には地元の獅子踊り保存会がお盆に集落を回る際に用いる権現様。その他、武者絵や太平洋戦争出征の際に武運を祈念した写真なども奉納されています。
社殿前から見た参道。
本殿。

神厩舎。


御神馬。


御神木。

末社。鳥居は皇太子殿下御成婚記念・昭和8年酉年生60才記念。

手水石。

こちらは読み取れず。

末社。何かはわからず。

こちらも不明。宝物殿的な建物。



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