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黒石市山形町。黄檗宗寶巌山法眼寺。開山南宗。御本尊大日如来。旧本寺不動寺(群馬県甘楽郡南牧村)。本山黄檗山万福寺(宇治市)。
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山門禁葷酒(明和乙酉天仲夏日)。ドキッ!!
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3.5
津軽八十八ヶ所霊場第二十九番札所(聖観世音菩薩。「身は砕けかばねば野辺にさらすとものりの道をば忘れまいぞや」)。津軽三十三観音霊場二十六番札所(十一面観世音菩薩。「後の世を願う心は軽くとも仏の誓いおもき黒石」。藩政時代には他領に領民が大勢出かけるのは労働力・経済力の他出になるため極力制限をしましたが、信仰熱は抑えがたく、領内に小さな霊場を作ることにより満足させました。津軽の霊場は初め弘前城下や近くの寺が中心でしたが、新田開発が進むにつれて郡部に新しい札所を設けるようになりました。※二十六番札所黒石観音堂は元々黒石神明宮の境内にありましたが、明治2年の火災(久一火事)で焼失し(住吉宮の焼失・廃社によるもの)、神仏分離や廃仏毀釈運動が盛んになり再興されず、明治時代後期に観音霊場再興の機運が高まると法眼寺が札所に選定されました。)
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法眼寺境内にある黒石市指定文化財(平成11年3月31日黒石市教育委員会)…『○市指定有形文化財法眼寺開山堂(平成4年7月7日指定)…南宗元頓を祀った一間四方の小規模な建物であり、当時は「赤御堂」と呼ばれていた。内部には元頓和尚の名が刻まれた卵塔が安置。正徳3年(1722)に建立され、法眼寺境内で最古の建物である。○市指定有形文化財法眼寺山門(平成4年7月7日指定)…寛保元年(1741)に建立、本堂より古い。扉や蹴放しはないが、細部の彫刻などには建築当時の意匠が残されている。姿の美しい山門である。○市指定民俗文化財法眼寺の砂踏乃碑(平成3年3月3日指定)…黒石の西村四郎兵衛の妻が西国霊場に出かけた様子が記されている石碑である。砂を持ち帰り、袋に入れて行けなかった人に御利益が得られるように踏ませている。石碑は寛永4年(1759)に建立。西国巡礼のことを彫った県内唯一の貴重な資料である。○市指定有形文化財(工芸品)剣(平成11年1月5日指定)…法眼寺には三体の不動尊がある。そのうち一体には文政3年(1820)2月に石川忠右衛門、忠兵衛が寄進した剣を持っている。剣は全長35.5cmの両刃であるが、江戸時代に名刀匠といわれた源正義の作品である。』
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山門。
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寛保元年(1741)建立。
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修理によって基壇や基礎部分はコンクリートになっており、扉が取り払われ、蹴放も外されています。
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百万遍(安政4丁巳年7月15日)
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地蔵堂。
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県重宝の鐘楼堂(昭和53年8月24日)。
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唐風造、木造2階建、寄棟、茅葺、桁行1間、梁間1間、高さ7.2m。延享3年に黒石津軽家や檀信徒の喜捨によって建立。青森県HPによりますと『重層で上下層とも一間四方である。下層はかつては観音堂として使用されたこともあったらしく、上層には高欄が回り、花頭窓を開き、茅葺宝形造の屋根を載せ、露盤宝珠を飾っている。重層の鐘楼は珍しいものであるが、楼門の上層に梵鐘をつる鐘楼門と呼ばれる形式もあり、あるいはそれを模した形かもしれない。』とあります。
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13.5
身舎は吹放の裳階が付く木造建築。正面には両開きの桟唐戸があり、その他の壁には明かり障子が付けられています。
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梵鐘は享保8年に武蔵国から運ぶ途中で海難により沈むも、安永8年に常陸国鹿島沖で発見され、56年の時を経て納まりました。その梵鐘は明治2年の大火により廃鐘。現在の梵鐘は昭和32年に法眼の位を持つ棟方志功が図案(三尊仏)を描いて寄贈されたものです。
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県重宝法眼寺鐘楼堂(昭和53年8月24日指定、昭和61年3月黒石市教育委員会)…『○建立年…延享3年(1746)○構造・様式…木造・唐風造り。幅、奥行きとも4.5m。高さ7.2m。屋根は、上層が寄せ棟造りのかやぶき、下層が銅製のこけらぶき。○特徴…垂木が放射線状。桂の下部は青銅製のはばきで腐食を防止。○由緒…延宝7年(1679)、南宗元頓が市内温湯に開山。元禄4年(1691)に現在地へ移り、翌年から黒石領主の祈願所。 』
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くろいし景観資産№8法眼寺鐘楼堂…『県内でも珍しい「唐風造り」であり、全体的に簡易な意匠だが、木鼻の彫刻などは近代寺社の特徴を示している。また、身舎に吊るされた梵鐘は、棟方志功により寄贈されたものである。』
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手水舎・石灯籠。
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本堂。延宝8年(1680)勢州阿坂(三重県)出身の南宗元頓(不動寺潮音の弟子)によって開山された黄檗禅宗の寺。初めは温湯村に建立され(跡地には薬師堂として監寺が残され、享保9年(1724)に5代弘前藩主津軽信寿により瑠璃山薬師寺の寺号を賜り黄檗宗の寺院として再興。※法眼寺・薬師寺ともに延宝8年の創立)、元禄4年(1691)に黒石3代領主津軽政兕の命によって南宗が現在の山形町へ遷しました。元禄5年伽藍建立、開基は黒石の加藤与兵衛と佐井村の竹内与兵衛の先祖と推定。御本尊大日如来は加藤与兵衛が元禄16年に没した二霊の供養のために寄進しています(真言宗の仏がなぜ禅宗寺院に安置されたのかは不明)。本堂は寛保2年(1742)の火災で焼失、宝暦9年(1759)及び明和3年(1766)の大地震で破壊。明和6年(1769)に仮本堂として再建立したのが現在の本堂。
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黒石市HPによりますと『本堂正面には、向唐破風(むこうからはふ)の向拝玄関があり、正面の妻飾りは三重虹梁大瓶束(さんじゅうこうりょうだいへいづか)からなる。この妻飾りの架構は、大きな茅葺屋根とともに壮大である。内外陣を区切る太い柱は角柱で、左右に大虹梁が渡され、木鼻を出し、2段の出三斗(でみつと)と蟇股(かえるまた)を置く。また、内陣(ないじん)を取り囲むように三方に虹梁を架け渡し、それぞれに蟇股を置く。法眼寺の本堂では、虹梁が内陣廻りに架け渡されているのみであり、円柱を一本も用いていないが、これは仮本堂として建られたため、若しくは方丈型本堂の古い形式が残されているためと考えられる。いずれにせよ、簡素な造りながら豪壮な構えの本堂であり、細部に年代の特徴がよく表れている。』とあります。
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本堂内部は4部屋に分かれ、御本尊を安置している内陣と外陣を区切る柱は大きな角柱で大虹梁がかけられています。来迎柱も角柱で二段の出三斗や蟇股などの細工が施され、天井は内陣が折上格天井、外陣が格天井。
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黒石領五代当主津軽著高は安永6年から武運長久・国家安全のための大般若祈祷を命じ、米三十石を寄進。大正4年(もしくは5年)に松前藩主の菩提寺の経堂寺が合併され、隠元禅師の寺号額、同藩主の位牌が移されて安置されています。
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県重宝法眼寺本堂(指定年月日:平成5年4月16日)…『〇規模:桁行17.190m。梁間14.325m。向拝幅5.730m。向拝の出2.865m。建築面積262.76㎡。〇構造:入母屋造。妻入。茅葺。向拝一軒。向唐破。鉄板葺(旧柾葺)北面。〇法眼寺は、延宝8年(1680)に勢州阿坂出身の南宗元頓によって開山された黄檗宗の寺で、温湯に建立。元禄4年(1691)に山形町に移る。本堂は、昭和6年(1769)に再建立、現在に至っている。本堂正面は、妻飾りが三重虹梁大瓶束から成る。向拝玄関で、母屋の茅葺屋根とともに壮大である。本堂の内部は無目の敷居で四部屋に区分。天井は外陣が格天井、内陣が折上格天井である。本堂には、津軽三十三観音第二十六番札所の十一面観世音が三十三観音とともに安置されている。平成12年3月31日青森県教育委員会・黒石市教育委員会』
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法眼寺の白フジ。
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不動尊堂。
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狛犬一対(明治34年6月28日・黒石上町、山田友太郎)
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26.5
向拝。
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向拝扁額。
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不動尊堂内。ちなみに法眼寺には「奉納不動明王相撲護碑」(大正元年8月1日)があるはずですが見逃したかも知れません。あと、「観世音のみろくにすがりてうれしくもたどりつきけりとわのすみかに」(建立年月日不明)という碑も見逃したかも。
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津軽三十三観音巡礼の皆様へ。
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開山南宗元頓を祀っている法眼寺開山堂。
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石灯籠一対。
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32.5
切延石の基礎に土台を廻してあり、粽付き円柱を立て、腰長押・内法長押を打ち、腰貫・内法貫を通し、頭貫に木鼻を出し、台輪を廻しています。正面に両開桟唐戸を吊るし、他の三方は壁面を構成。内部は土間床の一室で、その中央に南宗元頓の墓石である高さ60.5cmの卵塔1基が安置されています。卵塔の塔身正面には南宗元頓和尚の名があり、裏面には和尚が没した正徳3年の年号が陰刻されており、法眼寺境内の中でも最古の建造物であると推定。
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六地蔵。
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墓所の観音像と地蔵尊像。
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子供俳優、阪東鰹太郎之墓。
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砂踏乃碑。
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寛延4年、西村四郎兵衛の妻が西国巡礼に行き、各霊場から砂を持ち帰って1ヶ所に埋め、その上に立って拝むと、西国巡礼をしたと同じ功徳にあずかるという碑。
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詳しくは以前の記事を参照ください。
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「百歳の気色を庭の落葉哉」芭蕉翁(寛政3年)
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「桃青翁百五十遠忌 花咲いて七日鶴見る麓かな』芭蕉(天保14癸卯3月12日三界庵如萊)
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「消かゝる月や蓮の匂ふうへ」田村雪村(明治33年6月建之)雪村、雪洲、雪窓、雪映、雪林、雪哉
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「友だちのうしろ姿の有難味」三太郎。側面『我等与衆生、皆共成仏道』・『秋田君安らかに眠りたまへ 時に昭和九年八月二十六日川上三太郎合掌』※秋田君=雨雀の父
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『手を拡げて小さき実をこぼす初霰』秋田雨雀(黒石文学会建立)。秋田雨雀は明治16年1月30日、黒石町前町38番地(現17番地)に父玄庵、母まつの二男として誕生。本名徳三。3歳年長の義兄永三と妹3人の兄妹がありました。
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玄庵は嘉永6年に秋田徳蔵の四男として生まれ、家庭内事情から明治14年に秋田家を相続。19歳までの間に盲目となったので、黒石藩御殿医吉田理庵に漢方医学を、開業医盛玄仲に産科学を学びました。黒石周辺では「おぼこの神様」とあだ名されるほどに信頼を得た産科医でした。玄庵は俳句も嗜み、心眼と号しました。大正10年に70歳で亡くなりましたが、辞世の句碑「行く先は何處で暮れても花の宿」(秋田心眼)が法眼寺に建立されています。
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