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秋田県秋田市手形大沢。鉱業博物館の南方、秋田大学の東方。丘陵上にあります。是ヨリ東北三丁平田篤胤大人奥墓。
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平田篤胤の墓まで140m。
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佐竹義宣夫人正洞院の墓地手形山鬼子母神堂へ行くにも同じ石段を進みます。
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平田篤胤墓所。平田篤胤は江戸時代後期の国学者で、本居宣長らとともに国学四大人の一人と呼ばれています。安政5年(1776)に久保田城下に生まれ、小さい頃から学問に励み、20歳で江戸へ出ました。神道を原点とした日本古来の精神に帰ろうとする国学に強い関心を持ち、多数の著書を著しました。その学問や思想は広く受け入れられ、多くの門人がいました。しかし、その思想が江戸幕府のおそれるところとなり、秋田への帰還命令が出され、天保14年(1843)9月11日に68歳で病没しました。墓は自然石の墓石に「平田篤胤之奥墓」と刻まれ、秋田大学の裏手の小高い丘の上にひっそりと眠っています。神社検定の試験問題にも出る方です。
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史蹟平田篤胤墓碑。
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入口は南面して鳥居があります。遺言により此の地に葬られ、墓石は本居宣長の墓の方角に向けられているといいます。平田篤胤は本居宣長の復古神道を体系化し、幕末の尊王運動に影響を与えました。
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更に立派な石灯籠一対。
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墓の両脇には「古今五千載之一人」(山田孝雄)、「宇宙一万里之獨歩」(井上廣居)の石柱があります。
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墓は石の玉垣に囲まれ、墓石は自然石、正面に「平田篤胤之奥墓」と刻みます。
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裏面には「天保十四年癸卯閏九月十一日」と刻みます。
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平田篤胤の墓(国指定史跡)…『平田篤胤は、安永五年(1776)に久保田城下中谷地町(現在の中通四丁目二)に久保田藩大番組頭大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として生まれ、小さい頃から漢学や医術を学んだ。二十歳の時に郷里を離れて江戸へ出て、苦学をしながら多くの学問をおさめた。二十五歳の時に備中松山藩士平田藤兵衛篤穏(あつやす)の養嗣子となり、平田姓を名乗って平田半兵衛篤胤となる。そして二十八歳の時、最初の著書「呵妄書」を著わして国学に強い関心を持つようになり、以来、生涯を学問に打ち込んだ。国学とは純粋な我国古来の精神や道徳を探求し、それを学ぶことの大切さを説いたものである。篤胤のこの神道・国学の考え方は、江戸のみならず各地の武士・神官・商人・農民など多くの人々に受け入れられた。天保十二年(1841)六十六歳の時、その思想が幕府の体制をゆるがすとされ、幕命によって国元へ帰藩させられた。晩年を郷里で過し、天保14年(1843)久保田城下中亀ノ丁(現在の南通亀の町)にて六十八歳で病没した。墓所は遺言に従って衣冠束帯の姿でこの地に葬られ、師である本居宣長のいた伊勢の方角に向けられているといわれている。篤胤の思想は幕末の尊王思想の根本となるなど、歴史を動かす原動力としても多大な影響力を及ぼした。著述は「古史伝」・「霊能真柱」など百部千巻を超すといわれ、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵、本居宣長とともに、国学の四大人と称されている。昭和9年5月1日指定秋田市教育委員会』
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平田篤胤の墓石の後ろ。
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平田篤胤の思想に心酔し、戌辰戦争に散華した野崎大内蔵徳壽之墓(越後三島郡寺泊の聖徳寺僧侶)。
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小谷部甚左衛門吉訓之墓・妻小谷部ヤス之墓・後妻小谷部フチ之墓。
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裏面碑文…「甚 明治廿一年五月廿二日卒享年六十八 ヤス 明治十一年十一月十五日卒享年五十八 フチ 明治十九年九月廿九日卒享年四十六 小谷部吉訓生來神祇ヲ崇敬ス後平田篤胤大人ノ門ニ入リテ熱心神典ヲ講究ス明治十年十二月縣社日吉八幡神社祠官トナル明治二十一年五月二十二日卒ス」
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「平田大人 室 石橋氏 後室 山﨑氏 招魂碣」。
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17.5
裏面碑文…『石山 文化九年八月廿七日死丗一歳 昭和七年後裔及後學有志建立』
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平田大人略傳(苦手なくずし字平仮名な上に逆光で読みにくかったです。っていうかほぼ読めず!また変換(表示)できない漢字もあってほぼ諦めました)。…『天地は廣く大きなる志を起し日■の高く明■■■智以て神代■舊事歴朝の皇典を世間に■りとあらゆる書てに書乃眞柱■■て赤縣印度等の古史をも眞澄■鏡眞明瞭に説き徴■論■辨へらえ古今に比■■斯道は博士とも學祖■■仰き尊ひ奉るは贈正四位平田篤胤大人■りけり白川神祇伯王の大人に追諡して神靈能眞柱大人と稱へられしも實に然る事にて大人は其身現世の人■のち其智■神にそ■はし■■夙■學兄生田國秀も■■らく其目之所覽不知幾萬巻其手之所艸既有數百部議論■髙如榑■之黻日考■之突如暘谷无底則聖於學神■人誠可謂一萬里獨歩五千年一人矣と■む今しも中外の交通いや開けに開け書見むに■物究めむにも甚便冝き時運なる■ら幾千萬■巻を繙■幾百部乃書を著■む■最も難き業■■■思ふに千載の後と云へども又ある■くもあらねは豈■く■神■ら■して何のは■そ覺ゆる大人は安永五年八月廿四日■■出羽國久保田の城下に生れ天保十三四年閏九月十一日壽六十八にて幽世な神朝に■む歸りましぬるも惟神■道■共に其功績の盡む世や■■へき茲に大人の偉徳を慕ひ奉れる人々今回相議りて一碑を建て■■手形山は無窮に其本居を貽傳へむとせらるるは最愛■き事■しあれ■其由聊のかくれむ■■■ 大正元年十一月從五位勲五等文學博士井上賴圀撰文 正七位勲六等大山重華書丹』
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