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秋田県秋田市手形大沢。鉱業博物館の南方、秋田大学の東方。平田篤胤の墓の近くです。正洞院自体は明治維新後廃寺となり、現在は墓のみが残っています。境内跡にはこの他にも無縁仏と思われる墓碑が数多く見られ、また、入口付近には正洞院辨才天堂跡もあり、『弁才天の本尊は、弘法大師の一万座護摩秘密の灰で造られた弁財天像で、大師の手の形が押されていたことから、この地のことを手形と呼んだという伝承もある。』とあります。
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鈴木安孝翁(第八代秋田市長・最高功労者)墓所の標柱もありました。
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正洞院跡。
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標柱より…『正洞院跡は、初代藩主佐竹義宣夫人であり、文弱に流れた義宣を戒めるために自害したとも伝えられる正洞院の墓所として建立された曹洞宗の寺院跡である。明治維新後、廃寺となり、現在は正洞院の墓碑が残る。』
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史跡佐竹義宣夫人正洞院の墓地入口。
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平田篤胤の墓手形山鬼子母神堂に行く場合も同じくこの石段を進みます。
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途中にあった地蔵堂。地蔵様以外もおりますが。
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道中右手に史跡佐竹義宣夫人正洞院の墓地入口標柱がございます。
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よく見ると周囲にはいくつかの墓石が残されたままです。
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初代秋田藩主・佐竹義宣の正室正洞院は、下野国(栃木県)烏山城主那須資胤(八万石)の三女に生まれ、戦国時代の天正13年(1585)19歳の時、16歳の義宣と政略結婚をしました。しかし、結婚生活僅か5年にして24歳という若さで謎の自害を遂げ、この世を去りました。後年、義宣は、彼女の墓を常陸国(茨城県常陸太田市)の耕山寺から現在地に遷し、江戸(上野)と久保田(秋田)の両地に広沢山正洞院の寺院を建立し、悲運の彼女の霊を鄭重に弔い、供養をなしたとされています。正洞院は明治維新後に廃寺となり、現在の境内跡には無縁仏と思われる墓碑が数多く見られます。なお、江戸の正洞院は現在も入谷駅(出口2から徒歩2分)近くにあります。
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由緒…『佐竹義宣の正室正洞院は、下野国(栃木県)烏山城主・那須資胤(八万石)の三女に生まれ、戦国時代の天正13年(1585)19歳のとき、16歳の義宣と政略結婚をした。しかし、結婚生活わずか5年、彼女は24歳にして謎の自害を遂げこの世を去った。秀吉から家康へと移り変わる時流のなかで、戦国武将の正室たる面目をもって、佐竹家のため尊い生命を捧げたのである。後年に夫君の義宣は、彼女の墓を常陸国の耕山寺(茨城県常陸太田市)から現在地に遷し、江戸(上野)と久保田(秋田)の両地に広沢山正洞院の寺院を建立し、悲運の彼女の霊を鄭重に弔い追善供養をなした。平成16年(2004)建都四百年記念』
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正洞院殿明室珠光大姉。
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