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十和田市大字沢田字大反。
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参道は稲荷神社横にもあります。
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こちらは稲荷神社横の参道。
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正面鳥居。額束「澤田八幡宮」。
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こちらは正面参道。
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いずれの参道も両脇に真っ直ぐ伸びる巨木が美しいです。
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参道石灯篭二対(大正7年9月15日・明治31年旧7月15日)。
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8.2
8.4
8.8
正面参道の場合は下のように社殿正面に出ます。
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稲荷神社横の参道の場合は下の写真の位置に出ます。距離はいずれも変わりません。
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社殿前から見た稲荷神社方面への参道。
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社殿前から見た正面参道。
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手水舎(大正6年8月15日)。
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不明の石。
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社殿横に転がっていますが普通の石ではないですね。ちゃんと見ていませんが。
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隣接する津島神社境内の案内板に沢田八幡宮の由来も書かれています…『(津島神社御由緒省略)祭神・品田和気命・沢田領内守護武神。鎮座勧請…元禄七年旧暦八月十五日を例祭日として、沢田城(舘)中興の領主、目時八兵衛正宗が三戸、目時八幡宮から鎮座勧請した。この地域は中世南部四十八城の一つで沢田城と呼ばれていた。居館を中心にして東に八幡宮・西に才ノ神・南に新羅堂・北に神明宮と四方に神を祀っている。沢田城の大手(正面入口)は大通りの八幡さま入口の鳥居のある場所と伝えられている。明治維新の改革により約七百年続いた武家政治が終り当時の領主、目時三吉氏は大通り(おじより)の八幡さまと境内を沢田村に寄贈した。これが現在の沢田八幡宮である。』
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神社庁によりますと、旧村社。例祭日9月15日。御祭神は誉田別神。天明8年(1788)国学の開祖契仲の志を継ぐ柴野栗山の徒弟である東学院は、南部藩学問所に招聘され、寛政2年(1790)藩命を帯びて此地に渡り一祠を建立。応神天皇を祀ります。なお、「新撰陸奥国誌」では、元禄7年(1694)の勧請と伝えます。
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例祭日の9月15日は無病息災・五穀成就を祈願して沢田鶏舞が奉納されます。江戸時代末期に五戸町切谷内からおいらせ町下田本村に伝えられたものが、明治20年代に沢田の水尻住民に伝えられ、伝承当初は水尻けんばい(剣舞)といい、水尻・向村・舘の3集落の踊り手で構成され、主に祝福芸能として踊られました。この芸能は将軍徳川家光公が命令し、家臣の屋敷内に現れる亡霊を剣舞念仏で除霊させたとの言い伝えから、剣悪霊退散の供養踊りとして広まったといわれます。また、鎮魂の霊力があるとされる鶏をかたどった烏帽子をかぶることから鶏舞の文字をあてるようになったといわれています。タイシカ1人、シケンバイ2人、トリッコ数人が作り物のシダレヤナギを囲んで輪になって踊ります。
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拝殿向拝蟇股・木鼻等。
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。
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本殿横の御神木と本殿。
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本殿。
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23.5
狛犬一対。
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24.4
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紀年銘は大正14年9月15日。
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25.5
社殿横。
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社殿横の建物は何なのかわかりません。倉庫のように見えます。駐車場という看板がありますが、ここまで車で来るのは不可能です。恐らくこの看板は例祭日の時などにどこかで使用するものでしょう。
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末社。
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小祠。
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綺麗な服を着ています。棟札には「奉齋観世音神璽 家内安全 昭和60年6月15日 願主樋口鐡男」「奉修般若十六善神家運長久御祈処 家内安全 諸願成就(裏面達筆にて読み取れず)」「奉齋観世音神璽」「奉修般若十六善神家運長久御祈処 昭和8年旧正月3日修繕」「昭和参拾4年4月拾5日建立 家内安全 諸願成就 願主向山仁太郎」などとあります。
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隣りの末社(石祠)。何かはわからず。
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更にその隣の石塔。庚申塔でした。紀年銘は読み取れず。
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平山大明神と書かれた鳥居。
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鳥居をくぐって山を登っていきます。
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平山大明神。
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中には賽銭箱、鏡、御幣、棟札「平山大明神」、よく見かける一体が経巻を咥えている陶製双頭蛇体像、蛇の絵が書かれている木札などがありました。
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