山形県酒田市日吉町。皇大神社前に綿積石(越前の笏谷石)の石段があります。日和山の南端、船場町に降りる処にあるこの古い石段が神明坂です。皇大神社はもと下出町の北にありましたが、享保19年の焼失後に現在地に建てられました。坂の石段は文化14年に本間家4代光道が、市街と湊との交通の便、船頭や丁持(船からの荷物を運ぶ作業員)たちが荷物を運ぶ便を考えて築いたものです。
旧出町…『明暦図や天和3年(1683)巡見使覚書には猟師町と出ている。元禄以降船場町が栄えると共にできたものであろう。ここから秋田町に至る通りを鶴岡街道といい、鶴岡から赤川を下ってくる旅人で賑わった。芭蕉翁もここを通ったものと思われる。昭和61年3月(平成7年3月修補)酒田市』
松尾芭蕉酒田到着の地【奥の細道】…『元禄2年(1689)6月13日(陽暦7月29日)松尾芭蕉は夕刻川船にて酒田に着く。上陸地は日和山公園灯台下あたりではないかとされている。神明坂を上り、芭蕉坂から猟師町へ抜ける。芭蕉坂はこの展望広場のすぐ下。当時、芭蕉47歳・曾良41歳。酒田滞在中に芭蕉が詠んだ句「暑き日を海に入たり最上川」「温海山や吹浦かけて夕涼」』
皇大神社参道。入口には鳥居の台石のみがありました。
日和山神社鳥居。
神明坂の上に鎮座。
日和山神社社殿。
向拝。
宝珠。
小祠。
皇大神社の門。
境内。
境内社。鳥居には「町内安全」と刻みます。
社殿。
唐破風懸魚、蟇股、木鼻。
鬼瓦には「水」じゃなく「油」。
秋葉神社。
向拝、神額。
境内社。
三社宮。
蟇股、木鼻。蟇股には亀が3匹。
向拝神額。
湯殿山(天保14年卯5月吉日)。
庚申塔。
庚申塔。
庚申塔。
狛犬一対…というよりは二基。阿吽でまったく異なる狛犬です。
手水石。
江戸期以降の出町についてです。江戸期は酒田湊のうちで酒田町組の1つ。明治22年酒田町、昭和8年からは酒田市の町名。酒田西部に位置。明暦2年の酒田町絵図・元禄9年の亀ケ崎城下大絵図にも当町は見えず、江戸後期の絵図には船場町と桜小路の間に見えます。享保4年出町根上善右衛門とあり、その頃からの町名と考えられますが創始は不明。明暦2年の絵図では当地に下蔵が見え、丸岡領・大山・京田・櫛引など(最上川以南の地域)の租米を収蔵しましたが、明暦2年の大火で焼失して筑後町外に移ります。当町の西に土塚山があり、天候を占い、海船の入津の見張りをしたので日和山と称し、文化10年の常夜燈や江戸期の方角石が現存。明治14年日和山は公園となります。「東講商人鑑」には日和山下として廻船問屋網干屋与左衛門、出町として廻船最上積問屋酒屋長八の名が見えます。神社は皇太神社があり、同社は元文元年当町に移転建立し、明治9年郷社、琴平神社・秋葉神社を合祀。明治11年の一覧全図によりますと、反別1町余、戸数40・人口169。昭和40年に船場町1丁目・日吉町2丁目の各一部となります。
御祭神は大日霎貴命。旧郷社。創建年代不詳。もとは台町の北大神宮山にあり、享保19年(1734)社殿焼失の後、元文元年(1736)に現境内に移転。弘化3年(1846)造立。明治9年郷社。※境内に鎮座している金刀比羅神社と合わせて「神明さん」と呼ばれていますが、金刀比羅神社は別記事にしております。
看板「「神明さん」(皇大神社と金刀比羅神社)をみんなで守りましょう」より…『湊まち、そして米都「酒田」の繁栄は「北前船」による海運によって華開きました。さかた湊に寄港した船頭や回船問屋の荷主が、航海の無事を祈って必ずお参りしたのが、日の神である天照大神を祀った「皇大神社」であり後に四国の船頭たちが寄進勧進し、皇大神社の敷地内に建てられたのが、大物主神を祀った「金刀比羅神社」でした。また、日和山公園には、幕府の天領米を置いた「瑞賢蔵」があり、常夜灯が北前船の夜を護り、その灯を守ったのも神明さんの宮司でした。神明坂の石段や境内の石畳は、上方から帰る北前船のバラスト(船を安定させるための重石)として船積みされたもので造られております。神明さん(皇大神社・金比羅神社)、さかた湊に寄港した北前船、そして瑞賢蔵がある日和山などは、酒田の歴史を語る上で欠かせない歴史的・文化的な価値がある財産です。しかし、さかた湊とともに栄えてきた同神社の社殿は、老朽化し危険な状態になっております。鎮守の上下日枝神社に次いで親しまれてきた皇大神社を含む明神さん周辺を酒田祭り創始400周年を機に市民の皆さんの手で周辺を含めて整備してみませんか。募金箱は、「旧割烹小幡」に設置してあります。皆様のご協力をお願いいたします。日和山明神さん周辺景観整備事業実行委員会 設立検討委員会』
『出町に鎮座する皇大神社は一般に「神明さん」と呼ばれ、長い間市民に親しまれてきました。御祭神は我が国の祖神、太陽神である大日霎貴神(天照大神)。社伝によりますと、慶長3年、後藤静治という人が越後の国から酒田の西北にあったお富士山の南砂丘に皇大神社を勧請したといいます。宝永7年9月に台町末の砂浜へ社殿を造立し大神宮山と称しました。享保19年に焼失し、その後、風砂を避けて元文4年5月、現境内地へ54m四方に移建されました。天保14年、再び社殿が焼失し、弘化3年に再建されたのが現在の建物です。境内には金刀比羅神社をはじめ、日和山稲荷神社など近くの町内の鎮守が数多く祀られています。また、綿積石として運ばれてきた越前の青石(笏谷石)による参道や、天保3年3月に酒田の総回船問屋中が奉納した石鳥居があります。神社前には文化14年に本間家4代光道が荷物を運ぶ人たちの便利を計って築造した、参道と同じ青石による石段(通称神明坂)があります。ちなみに出町とは、以前ここを鶴岡街道といい、湊から秋田町や市街へ出る大事な場所だったことからつけられました。』
入母屋、桟瓦葺、平入、正面千鳥破風、桁行3間、梁間2間、正面1間軒唐破風向拝付。外壁は板張、黒渋柿塗り。向拝木鼻には象と獅子、梁には波と鯛、欄間には親子龍、懸魚には鶴、妻壁には鳳凰、蝦虹梁には力士像(雷神・風神)の彫刻。
社殿前石灯籠一対。
社殿裏へ。
小祠がありました。
位置的に本殿!?って思ったけどちょっと本殿にしては荒れ過ぎですね。
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