山形県酒田市日吉町。
山王鳥居(昭和56年5月吉日建立)。
社号標(明治36年3月吉日建之)。
『先人ここに街を開き鎮守日吉山王大権現を祀る。以来四百九十年風砂を除き砂嚢を積み松林を経営して境内とす。神佛両殿を祀り山王両宮と称せし時代を経て明治に至り日枝神社と改称県社に列せらる。街の繁栄と社会の安寧を祈りここに祖先の偉業を称う。平成9年7月日枝神社』
山王鳥居…『神域を表徴する鳥居には極めて多種の様式があるが、山王鳥居は神明鳥居の上部に三角形の合掌或は破風の如きものが加わった当社独特の鳥居である。昭和三十六年秋の強風により従前の木造大鳥居は倒壊の災に遭ったが、昭和五十六年篤志の奉納で再建された。御神号額は陸軍大将西郷隆盛公御筆明治十七年新調のものを再掲した。平成27年5月吉日日枝神社』
正一位稲荷神社。
太川周明博士顕彰碑(題額酒井忠明、大川周明顕彰会・大川周明博士生誕百年祭実行委員会建之、昭和61年10月吉日)。
哀輓三章…『識見文章 共に絶倫 多年興亜経綸を展ふ 痩躯六尺 英雄漢 睥睨す 東西古今の人 危言 厄に遭うも道何ぞ窮せん 幾度か身を投ず 囹圄の中 筆は秋霜を挟み 心は烈日 果然頽世 清風を起す 立言何ぞ遜らん 立朝の勲 時 艱難に際して嗟す 君を喪うを 渺々たる魂兮 招けとも返らず 哀歌空しく対す 暮天の雲 哀輓 大川博士周明君 土屋久泰』
アジア植民地解放の父・大川周明の略歴…『明治十九年酒田西荒瀬村藤塚に生まれた。荘内中学時代角田俊次の家塾に起居「南洲翁遺訓」に影響を受け、また横井小楠の卓抜なる見識に傾倒した。熊本五校、東京帝大インド哲学科に学んだ。ふとした縁でヘンリー・コットンの「新インド」を読んで、イギリス植民地下のインドの悲惨を知り、植民地政策の研究へと人生の転換を志した。昭和四年時の満鉄総裁山本条太郎を説いて、満鉄から調査局を分離し東亜経済調査局を主宰、理事長となり、アジア、アフリカの政治経済、社会、文化の調査研究の指導に当り、また盟友北一輝と共に「猶存社」を創立。更に「行地社」「神武会」を主宰、五・一五事件に連座、獄中で不朽の名著「近代欧羅巴植民史」を著した。昭和十三年四月、東亜経済調査局附属研究所を設立主宰。日支間の和平、アジア問題に献身し、大東亜戦争では東條に極力開戦阻止を進言したが果さず、戦後A級戦犯容疑者に指名されたが、昭和二十三年暮、不起訴で釈放された。日本は敗戦したが、アジア、アフリカ諸国は独立し、大川の植民地解放の夢は実現した。大川著「回教概論」はイスラム研究の最高水準をいっている。晩年「古蘭(コーラン)」の翻訳に没頭し、昭和二十五年に岩崎書店より刊行している。昭和三十二年十二月二十四日神奈川県中津に於て逝去。七十一歳 大川周明顕彰会』
隨身門。二階建ての随身門は本社社殿とともに天明7年に本間光丘が建立。その後明治27年に倒壊し、同36年に再建。鳴き天井は名工の秘術とされます。「至誠通神」の掲額は東郷平八郎元帥の真筆。
隨身門…『神社の尊厳と境内の警護を願い太玉命、戸屋根命の神像を安置する。この門を潜り参道が曲折しているのは俗界と聖境を区分し、参拝者の精神統一をはかったものである。天明七年本間光丘建立のものが明治二十七年十月二十二日酒田大地震にて全潰。現在の門は八年をかけて材質を吟味し工匠の術を集めて明治三十五年本間光輝が再建したものである。楼門二層造総欅材で威厳と優美の調和が特徴と云われる。門の中央で拍手を打つとこだまが返るが、天井の微妙な湾曲による反響であり「鳴き天井」は名工の秘術とされ反響の大小により神意を伺ったとも云う。「至誠通神」の掲額は東郷平八郎元帥の親筆であり御参拝の本義を示している。日枝神社』
現地で拍手を試してみて下さい。
神像。
隨身門から見た山王鳥居。
裏側から見た隨身門。
やや上から見た隨身門。
参道。
境内社。向って左が浅間神社、右が八幡社(八幡宮)。
狛犬一対。
浅間神社。
石灯籠一対。
社殿。
蟇股・木鼻等。
八幡社。
石灯籠一対。
社殿。
下日枝神社社殿前の石橋。
江戸期以降の下台町についてです。江戸期は酒田湊のうちで酒田町組の1つ。明治22年酒田町を一時冠称。昭和8年からは酒田市の町名。酒田西部に位置。町名の由来は台地に立地していたためとする説と、町奉行中台式右衛門が在勤中に町割りしたことから姓の一字をとったという説とがあります。当地はもと砂山でしたが、明暦2年より家作が始まって次第に町並が整備されました。天和2年の町割家数人数書上帳によりますと、家数81軒・人数355(男207・女148)。裏町がある当町には小右衛門小路があり、元禄9年の亀ケ崎城下大絵図では横小路長さ35間・幅4間。江戸期は上台町を含めて台町と称されることが多かったそうです。港に近い当町には小海船による運送業者、鮭漁をする漁師、小宿を業とする者が多く、享保4年では小問屋10数軒を数えますが困窮者も多く、元文4年酒田町困窮者総数175人中台町115人、寛保元年211人中101人を占めています。天保5年当町から出火し台町で180軒を焼失。神社は酒田町組の総鎮守日枝神社があります。同社は大永年間宮野浦(向酒田)より最上川を隔てた酒田高野浜に、後に荒町などを経て正徳2年に当地に移転。下山王宮と称されて明治6年県社となりました。寺院は新義真言宗(智山派)海向寺があり、同寺は元長2年弘法大師の創建と伝え、文化年間再興。明暦2年の酒田町絵図に寺名が見え、元禄9年の亀ケ崎城下大絵図では20間×25間余の屋敷を有しています。なお同寺には宝暦5年入寂の忠海上人と文政5年入寂の円明海上人の即身仏を安置。明治5年の台町の5反帆船15・3反帆船10。明治11年の一覧全図によりますと反別1町9反余、戸数118・人口479。昭和40年日吉町1~2丁目・南新町1丁目の一部となります。
石灯籠一対。
手水舎。
狛犬一対。
石灯籠一対。
社殿。酒田市の総鎮守として上、下二社の日枝神社が祀られていますが、下日枝神社は山王宮と称され、酒田町組の守護神として親しまれてきました。
拝殿向拝。
蟇股・木鼻等。
拝殿向拝神額。
神猿。
大山咋神が山の神であることから山の守り神である猿が眷属。
また「さる」から「勝る」「魔が去る」に通じ、勝運の神や魔除けの神ともされ、更に「えん」から「縁」にも通じ、商売繁盛や縁結びの祈願とする方もいるそうです。
手鋏と神猿。
日枝神社…『◆御祭神:大己貴命、大山咋命、胸肩仲津姫命。◆由緒:最上川の流域変遷のため天文永禄年間頃より対岸袖之浦(向う酒田)より当社を奉じて川を渡り東禅寺酒田の西方に酒田町組なる民居を創始した。当初遷座は西浜おふじ山附近、次に荒町に移り更に正徳2年現在地にて南北両殿、神仏両式の祭祀にて山王両社とも称した。宝暦元年大火に類焼、本間光丘造営の大社殿が7年後再び類焼。天明4年再建の現社殿は位置を北方に移し三方を土手で囲み南面の社殿とした。日和山口を正面とし山王鳥居、隨神門より120mの参道を開き、従前の台町口を東参道とした。明治27年の酒田大地震で大被害を受けるも修復、総欅造の社殿は山王さんとして市民の崇敬を集めている。神社では元旦祭から除夜祭まで四季各々の祭典を執り行い、国の隆昌と世界の共存共栄を祈りますが、年に一度の例大祭は5月20日酒田山王祭として古例のままに神宿の制による厳粛盛大な神事が行われます。』
山王社の祭礼…『慶長6年(1601)、亀ケ崎城主であった志村伊豆守は亀ヶ崎城内にあった日吉社を山王堂町に移し、山王宮(現上日枝神社)として内町組、米町屋組の鎮守とし、また、藤ケ森の一隅にあった山王宮(現下日枝神社)を荒町と上小路の角に遷座し酒田町の鎮守とした。これにより山王宮は酒田三組の産土神となった。酒田町の山王宮(現下日枝神社)には南北両殿があり、南殿には山王神体の大己貴命を奉安し、北殿には本地仏釈迦如来を安置していた。祭礼は慶長14年(1609)に行われ、陰暦中の申の日がその当日であった。正保4年(1647)には、時の町奉行・乙坂六左衛門(生没年不祥)の発案により三町合同の祭礼がおこなわれ、渡御行列が町中を練り歩くようになった。以来、山王祭りは酒田祭りと名前を変えたものの現在まで続き酒田市民の精神的支柱となっている。』
天明4年(1784)本間光丘の寄進によって造営された現社殿は荘厳な建築で、当時は総漆塗りでまばゆいばかりの光をを放っていたといいます。
拝殿の篆額は「汝授多福」の副島種臣の書。
拝殿内。篆額「汝授多福」は逆光でうまく撮れず。
拝殿内。篆額「汝授多福」は逆光でうまく撮れず。
山王森庭園。
古峯神社。
庚申塔(癸卯秋)。
鳥居・石段。
石灯籠一対。
社殿。
拝殿向拝。
手水石。
狛犬一対。
庚申塔(天保12辛丑年3月吉日)。
社務所。
社務所(裏手)。
台町口東参道鳥居。
社号標「縣社日枝神社」。
鳥居近くの建物。
東参道石段。
石灯籠。
長くなりましたが、以上でございます。
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