山形県酒田市日吉町。日枝神社南東にあります。建物は酒田初の鉄筋コンクリート建造物。銅板葺き鉄筋コンクリートブロック社殿造りの近代和風建築で、本館は2階建、書庫は3階建。社殿造りの外観である一方、森山式と呼ばれる鉄筋コンクリート構造を採用した洋式の内装となっています。内務省神社局の技師であった角南隆が設計し、施工は森山善平。また、正面玄関の扁額は鶴岡出身の海軍軍人佐藤鉄太郎によるものです。平成8年に本館などが酒田市の指定有形文化財となりました。なお、旧光丘文庫の建物内部を見学することはできません。本間家3代目当主の本間光丘は、酒田北西部の海岸に防砂林としてクロマツを植林するなど、公益事業にも熱心でした。当時、最上川の渡し場一帯の治安が問題となっていましたが、大規模な開発を行えば周辺に生育する茅が失われ、屋根や冬囲いの材料が不足することが懸念されました。このため光丘は旅人のための宿泊施設と、僧俗一般の勉学のための文庫を兼ねた寺を建てることを思い立ち、宝暦8年以降、毎年のように庄内藩を経由して幕府へ願い出ました。しかし、新たな寺の建立を禁止していた幕府から許可が下りることはありませんでした。大正7年、光丘に正五位が贈られたことを契機とし、日枝神社の北東に光丘神社が作られ、更に本間家(8代目当主本間光弥)の負担により光丘以来の蔵書(先祖伝来の蔵書2万冊と建設費及び維持基金10万円)などを寄贈することによって新たな図書館の建設が決まりました。大正14年に本間光丘の偉業を偲び光丘文庫(財団法人光丘文庫)が竣功すると、酒田をはじめ山形県内の旧家から多数の蔵書が寄贈されます。昭和25年、光丘文庫をから建物と蔵書の一部を借りる形で酒田市立図書館が設立され、昭和33年に建物と蔵書などが酒田市に寄付されました。この時、酒田市立光丘図書館に改称。昭和57年、酒田市立中央図書館が完成したことに伴い、名称を酒田市立光丘文庫に改称。老朽化に伴い、平成28年7月31日をもって休館し、資料は酒田市役所中町庁舎へ移動。
「歴史を語る建物たち」より一部抜粋…『酒田市史などによると、光丘文庫が建てられたきっかけは、大正7年に、「公益の祖」と言われる本間家3代光丘に対して、国から贈位が行われたことによる。大正10年、酒田町長(当時)を会長とする「本間光丘翁頌徳会」(略称)が組織され、大正12年には8代本間光弥が、図書館建設のため蔵書1万数千冊と建設維持費10万円(現在のおよそ数億円)を頌徳会に寄贈した。これを受けて、頌徳会では財団法人光丘文庫を設立し、大正14年に図書館機能を持つ「光丘文庫」が開館した。さかのぼること百数十年前、3代光丘は、旅人の危難を救うために宿泊寺を建立し、そこに経蔵を設けて博識の住職を招き、人々の学問の場にしたいという思いを抱いていた。今でいう図書館である。しかし、幕府への再三の懇願にもかかわらず、新寺造営停止の政策により果たすことができなかった。その遺志を、8代光弥が継いで実現させたわけであり、寄贈にあたって光弥は、「有益なる図書を蒐集して公衆の閲覧に供し、学術の研修、国運の発展に資したい」と述べたと伝えられている。なお、光丘文庫の設計は、内務省(当時)技師の 角南隆、工事は森山善平が請け負った。角南と森山はその後、北野天満宮宝物殿(昭和2年)や太宰府天満宮宝物殿(昭和3年)などの建設でもコンビを組んでいるが、一緒に仕事をした光丘文庫の建設で息が合ったのかもしれない。光丘文庫の開館に合わせて決められた「事務取扱い心得」の1つに、「一般来館者に対し親切に応接するはもちろん、特に盲人、児童および婦女子に対しては、もっとも注意を有すること」がある。館内には盲人閲覧室もあり、目が不自由な方のための点字本の充実度は全国でも指折りであった。昭和23年には、来酒したヘレン・ケラーもここを訪れている。また、昭和5年には山形県博物学会第1回総会が光丘文庫で開催され、著名な植物学者である、東京帝国大学(当時)の牧野富太郎博士が講演を行った。』

案内板より…『本間家三代当主光丘翁は、修学のために文庫を兼ねた寺院の建立を江戸幕府に願い出たが、ついに果たさなかった。その意志を受け継ぎ、八代当主本間光弥氏は、大正14年(1925年)にこの光丘文庫を建てられ、その後、昭和33年(1958)に建物と蔵書は酒田市に寄贈された。光丘文庫は、和書、漢籍、郷土資料、個人蔵書など、貴重な図書を6万余冊所蔵し、主として学術研究調査のために利用されている。※光丘文庫は、酒田市役所中町庁舎5階に移転しました。』

酒田市立光丘文庫のあゆみ。
昭和2年4月29日、第1回天長節を祝い、光丘文庫は東宮殿下台臨記念碑の除幕式を挙行。題字「東宮台臨處」は侍従長入江子爵の揮毫。碑の裏面には国府種徳の撰文、本間光彌の書を刻みます。

東屋「山王亭」。
眺望。
海向寺・蓮尚寺がすぐ近くに見えます。
東屋「山王亭」…『酒田市内を一望できる絶好の場所に立てられた「山王亭」は、中国様式の六角千鳥風建築です。昭和59年秋に、市民各層からの募金と「山王森の緑を育てる会」会員の奉仕活動で完成したものです。酒田市に寄贈されました。中国蘇州の名園「拙政園」の東屋がモデルです。昭和59年11月建立』

パンフレット「酒田本間家の三代目当主 酒田本間家二代光寿の三男 名は光丘」より…『俗謡(はやり歌)で「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と全国へ伝播するにまでなった酒田の豪商、本間家。その三代当主光丘は本間家中興の祖として知られ、多くの公共事業を通して酒田のまちの発展に尽くしました。飛砂の害から民を守るためにクロマツの植林事業を行い、財政が切迫していた庄内藩をはじめ東北諸藩への資金援助や財政再建に取り組みました。また、藩内の飢饉に備えて備荒籾(備蓄米)を献上、更に、藩士や農民へ低利の資金融資を行い、窮民の救済にも努めました。さまざまな事業を通して優れた経営手腕も発揮し、やがて「日本一の大地主」となり、金融・商業・地主の三本柱で莫大な財力を築いたのです。四代光道は、冬期失業対策事業として別荘「清遠閣」とその庭園「鶴舞園」を築造。戦後には全国初の私立美術館「本間美術館」として市民に開放。市民が一流の芸術文化にふれる機会を創出してきました。』









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