1
大館市大茂内中瘤木台。
2
大茂内は大館盆地の北部。長木川に注ぐ大茂内沢・茂内沢の出口の洪積台地上に位置。大茂内沢の上流山間部を経て鹿角に接します。中心集落は山麓の台地上に発達。集落東方付近から縄文中期の遺物及び須恵器片が出土。四ツ屋地区は天慶3年、平将門一族の相馬氏が落ち延びてきて開いたと言い伝えられています。
3
江戸期以降の大茂内村は出羽国秋田郡北比内のうち。秋田藩領。元和年中に開村された新田村と伝えられます。正保国絵図、元禄7郡絵図ともに大重内(大茂内)新田村85石と図示、新田村と認定されていたことがわかります。元禄14年から雪沢村とともに南部御境目郷を勤めます。宝永~享保年間の郡村改めで新田の字をとって大茂内村となり、四ツ屋村(天明4年に廃村)を枝郷に擁し、享保黒印高帳では村高175石余・当高132石余(うち本田11・本田並65・新田56)と認定。寛政村附帳では当高166石余(うち蔵分106・給分60)。親郷大館町の寄郷。御判紙写帳によりますと、この時期までに四ツ屋村に山方氏ら4人、大茂内村に中島氏ら3人の大館給人が10石程度ずつの給分を当村内に指定されていました。戸数は享保郡邑記で32軒(うち枝郷分10)、秋田風土記で16軒、天保郷帳では132石余。安政年間には146石余、28軒・164人・馬40頭とあります。
4
村鎮守の諏訪社(例祭9月11日)は元和年間の勧請と伝えられます。広大なスギに覆われた山林は、「大茂内沢」の名称下に元和~寛永年間に早くも藩の御留山に指定。漆の植立ても盛んに奨励されました。鍋越山(鬼ケ城)は戊辰戦争のとき南部・秋田両軍の激戦地となりました。明治11年戸長役場を東大館町に置く9か村と連合、同22年北秋田郡長木村の大字となります。
5
社殿。
6
中はこのような感じです。
7
石殿(稲荷神社)が一基。棟札には「昭和61年11月吉日再建、宮司佐藤文彦、氏子崇敬者一同敬白」とあります。
8
その他の棟札には「稲荷大明神 龍王神 擁護 祭禮日旧4月19日・旧8月10日日、昭和廿六稔吉辰、志主山内米治」※自信なし
9
こちらも何かはわからず。
10
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ