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秋田県男鹿市脇本。生鼻崎(脇本七沢)付近。海に突き出た生鼻崎の上、海抜100m前後の丘陵地に広がる中世の城跡。脇本城(国指定史跡)は古くから男鹿半島を掌握する要害の地(創建時期は不明)で、安土桃山時代の天正5年(1577)に、檜山、湊の両安東氏を統一した安東氏の一族安東愛季(ちかすえ)が大規模な修復を行って居城とした城であるといわれています。その規模は生鼻崎から本明寺の上の馬乗り場を経て、脇本第一小学校上の兜ヶ崎までを含む、総面積約150haに及び、東北最大級といわれています。城の遺構は、多数の曲輪・土塁・空堀・井戸跡などの他、虎口と呼ばれる城の入口部などが確認されており、発掘調査では当時使用した陶磁器などが出土しています。天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置から慶長7年(1602)の佐竹氏による久保田城築城の間に廃城になったと考えられています。平成29年4月6日には続日本100名城(106番)にも選定されています。
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案内板「史跡脇本城跡」(指定:平成16年9月30日・指定面積1,287,382.77㎡)より…『史跡脇本城跡は、日本海を見下ろすようにそびえる標高100m程の広大な山城です。室町-戦国時代に秋田県中央-北部を支配した安東氏の城である、檜山城(能代市)、湊城(秋田市土崎)の間に位置する脇本城は、天正5年(1577)に安東愛季が大規模に改修したと考えられ、曲輪や土塁、井戸跡等、戦後時代に整備された山城の遺構が観察できます。発掘調査では、当時の掘立柱建物跡、塀・柵跡等の遺構や、陶磁器、木製品、金属製品等の武具や生活用品等、貴重な遺物も多数出土しています。南側の内館地区からは、西の真山・本山、東の八郎潟(現大潟村)や森吉山、南には日本海が開け、山形県との県境、鳥海山まで見渡すことができ、海沿いを拠点として勢力をのばした安東氏がこの地を選んだことを実感する眺めを楽しむことができます。』
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脇本城跡案内図。
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海から見た脇本城跡。奥には寒風山。
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昭和30年代の内館。
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城歩きモデルコース。
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本明寺、大龍寺跡、二股の樅の木、萬境寺、子安地蔵、茶の水、稲荷神社などがありますが、今回はそこには触れません。
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また、菅原神社については別記事にしております。
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脇本城跡全体図・地区区分図。男鹿半島は、中世安東氏の支配下にあったことが市内にある神社や寺院の由来などから知られています。脇本城も安東氏に関係する城館であると考えられ、その城域は非常に広大で丘陵全体に及びます。
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遺構の構造や地名等から、比較的小規模な曲輪が並列的に群をなして立地する「内館地区」、単郭の大規模な曲輪を中心とし、周囲に小規模な曲輪が展開する「馬乗り場地区」、小さい尾根の頂上部に小規模な曲輪が位置する「兜ケ崎・打ケ崎地区」、中央部を田谷沢道が横断する「乍木地区」、内館及び馬乗り場地区の立地する丘陵下に位置する「お念堂地区」と大きく5つの地区に分け、さらに短冊形の地割やカギ型に曲がる道が残る「城下町地区」と現在も寺が多く残る「寺院地区」に分けています。※「城下町地区」は脇本遺跡として登録されています。
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脇本城跡の出土遺物。
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現在地。
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脇本城跡…『天正5年(1577)下国安東愛季が大規模に修築し居城とした城として知られる。愛季はもと檜山城主であり、元亀元年(1570)秋田湊城を統合して、小鹿島をも直轄地とし、「ひのもと(蝦夷)将軍」として蝦夷管轄をも担い、織田信長との交渉のさなか、脇本城を居城とした。盛時の縄張りは茶臼館や岩倉館まで含む。もともと14世紀頃から城館が営まれていたとみられ、愛季の後の城主は脇本五郎脩季の伝承を伴っている。天正17年湊合戦で戦場となり、豊臣大名秋田実季の代には本格的修築は許されなかった。近世には太平城跡・生鼻城跡の通称でも伝えられたが、文化7年(1810)大地震のさい生鼻岬700メートル余が海中に没し、現在は本丸とみられる地域に郭・土塁・空堀・井戸跡等が残り、黄瀬戸・青磁・珠洲陶等が出土する。』
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登城口標柱「内館まで650m・菅原神社まで250m」。
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それでは向かいます。
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菅原神社標柱「内館まで400m・登城口まで250m」。
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眺望。
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国指定史跡脇本城跡天下道…『中世の主要な交通手段は徒歩・馬・船でした。脇本城はこの3つのすべておさえるため、周辺の港・道を支配していたと考えられます。今、登ってきた道は、通称「天下道」と呼ばれる古道です。中世に整備されたと想定されます。現在は城の西側が市道により分断されていて通り抜けはできませんが、秋田方面から船川・北浦方面へ向かう主要な道として長い間利用されていました。ここから先の道路は後に整備されたもので、かつての天下道はここから山側に続き、城の主要な地区、内館を横切ります。空堀の底のように両側が高い堀底道だったようです。この先は内館です。平らに整地され建物などがあった曲輪、土手状の防御施設である土塁、井戸跡などを観察することができます。自然の地形を活かしながら大規模に土木工事をしていること、建物や塀・溝などの施設がたくさんあったことが発掘調査によってわかってきています。海を見渡すことのできるすばらしい眺めと一緒に、中世の風景を想像しながら歩いてみてください。』
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案内所。
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案内所内には様々なパネルやパンフレット等があるので是非寄りましょう。※当記事の写真は反射して見えにくくなっています。
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案内所に寄れば予備知識が無く訪れても十分に楽しめます。
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青磁皿の出土状況。
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刀子の出土状況。
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火縄銃の弾の出土状況。
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検出された塀の跡を示す柱穴列。
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全体模型。
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ちなみに案内所までは車で来ることも可能です。※大型・中型車両不可
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天下道に沿って先に進みます。
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素人目にも広大な山城であったことが明確に理解できます。
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現在地。
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案内板「脇本城跡の概要」より…『■脇本城跡について…脇本城は、古くから男鹿半島を掌握する要害の地でありましたが、元亀元年(1570)に秋田郡・檜山郡・豊島郡を統一しながら比内郡へも勢力を及ぼし、蝦夷島(北海道)管轄にも携わった安東愛季が、天正年間(1573-1591)に織田信長らと政治折衝を続ける中で、再整備した城であります。■脇本城跡の特徴について…①戦国時代末期の巨大山城であり、東北最大級の規模です。城跡は、海抜百m前後の丘陵地を利用して築城されており、その規模は東西約1.8km。南北約2.0km。全体の面積が約150ヘクタールと考えられており、能代市の檜山城、福島県会津本郷町の向羽黒山城など、東北地方を代表する山城と共通した性格をもち、これらの城と比較しても勝るとも劣らない拡がりがあります。②色々な遺構を数多く残しており築城技術の博物館です。城には自然地形に即して堀切や空堀・土塁・曲輪・段築・馬出し・虎口・木戸など色々な遺構が認められるほか、城の斜面などには空堀・土塁により迷路を造ったり、通路をさえぎるような工夫をしております。特に西側急斜面の30本以上に及ぶ大規模な堅堀・堅土塁群は壮大です。③城域に複数の中心部分が存在しております。大きくとらえれば、生鼻崎の内館を中心とした曲輪群、馬乗り場(古館)・本明寺山を中心とした曲輪群、兜ヶ崎を中心とした曲輪群、打ヶ崎を中心とした曲輪群、田谷沢集落裏の曲輪群、乍木の曲輪群など複数の曲輪群の集合体として成り立っております。その中で馬乗り場(古館)が核となっていた可能性が高いとされております。④城内の中を主要道路の「天下道」が通っています。船越方面から脇本集落を通り、城内を通過し船川、北浦方面に通じる主要道路の「天下道」が通っています。⑤城の北側を通っている「田谷沢道」は、築城時に整備された道路です。田谷沢集落から脇本へ通ずる「田谷沢道」は、切通しとなっており、要所要所に折りや行き止まり状の遺構を設けております。⑥脇本本郷集落は、脇本城の城下町です。本郷集落は、中世の城下町の景観を残しており、水堀、木戸を設け、家臣屋敷と町屋地区がありました。また城下町特有のカギ型通路が今でも残っております。■安藤愛李と脇本城に関する年表…天文8年(1539)愛季、檜山城主舜季と湊城主尭季の娘との間に出生したといわれる。元亀元年(1570)湊安東家内紛。愛季、湊安東家を配下におく。天正3年(1575)愛季、織田信長に鷹を贈る。天正5年(1577)愛季、従五位下に叙位。愛季嫡子業季に湊・檜山の両城を譲り、脇本城を居城とする。天正8年(1580)愛季、従五位上に叙位のうえ、侍従に任命される。天正10年(1582)実季が湊城主となる。信長、本能寺で殺害される。天正15年(1587)9月、愛季が淀川の陣中にて病死し、遺骸を脇本城下の法蔵寺に葬るという。天正17年(1589)豊島城主湊通季が実季を攻撃する。実季は脇本城を考えるが結局檜山城に逃れ籠城し勝利する。天正18年(1590)豊臣秀吉が奥州仕置きを指示。この時脇本城も廃城を申し渡されたと推定されている。』
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内館・生鼻崎地区の遺構。
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長くなったので『脇本城跡 ~ 其之弐』へ続く。
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