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大館市柄沢大沢尻。柄沢第三貯水池付近。大館市柄沢生活総合センター向かい。
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参道。
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柄沢村は元禄7郡絵図までの藩側作成の絵図に図示されていません。享保郡邑記で8軒の村として登載するも享保黒印高帳には見えません。寛政村附帳で親郷大館村の寄郷に位置付けられ、当高109石余(すべて給分)と記載。大館給人川又氏ら12人の給分が当村内に指定されていました。山村でしたが大館城に東接し、秋葉山一帯の広大な山林は藩の御留山郷に指定。秋田風土記以後は大館町の枝郷として記載。郷村史略では大館町の枝郷として高85石余・16軒・56人・馬30頭。村鎮守神明社は幕末に大館神明社に合祀。廃藩置県後に大館町の枝郷から独立して西大館町の大字。
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4.5
社殿。
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5.4
5.8
拝殿向拝。
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6.4
6.8
幣殿・本殿覆屋。
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7.5
拝殿内。当神社の由緒等については調べておりません。
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庚申塔・青面金剛。
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9.4
9.8
境内社。
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石殿が一基。
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記念碑。
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碑文…『太平洋戦争の敗戦により極度の食糧増産の必要に迫られその一翼を荷負柄沢地区の畑原野開田を兼ねた耕地整備事業を指標として灌漑施設新設の為昭和二十五年度土地改良区を設立工事に着手以来区画整理幹線導水路農地幹線排水路災害復旧事業を施行昭和四十六年換地処分登記完了まで二十有余年の歳月と總事業費六五,六四三,〇八八円の資金を投下し茲に全体事業を終了し今後益々大型化の要請により六土地改良区の大同合併により昭和四十七年四月一日より大館市土地改良区になる。当地区事業の内容は溜池二ヶ所貯水量二九五,七一七立方米耕地六三町歩幹線導水路二二〇〇米幹線排水路九九七,三七米を造成し農業経営の合理化と農家経済の向上を望んで止みません。関係者の意慾と長年に亘る苦斗により茲に完了した願わくは本事業の成果がひとり農業のみに止まらず大館市発展の一翼として一般市民の福利増進の為碑益することをこい願うものである。茲に本事業の完成を記念して碑を建立し後世に傳えんとする。篆額秋田県知事小畑勇二郎書 昭和四十七年三月 大館市柄沢土地改良区』
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