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秋田県鹿角市花輪荒屋敷。櫻山護國神社。桜山地区公園内鎮座。花輪館北館になります。
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憩いの場として親しまれている園内はソメイヨシノの隠れた名所。ソメイヨシノ200本は見事。
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「桜山神社」案内板…『一、御祭神(一)南部家藩祖…南部三郎光行公(源姓大明神)(二)中興の祖…二十六代南部大膳太夫信直(信徳大明神)(三)幕末以来の郷土・国事の英霊…①戊辰の役(四十三柱)②明治の日清・日露の戦争③昭和の日中・太平洋戦争の四百七十二柱。二、創始…南部藩の拠点、鹿角の花輪館の一角、北館に明治30年、南部藩主を祭神とする桜山神社(盛岡市)より分祀、創建される。戊辰の役における鹿角の戦死者(91名)内、花輪の藩士(43名)が祭祀される。三、例大祭…5月9日(宵宮祭)、5月10日(本宮祭)(一)招魂碑(明治30年建立)、(二)忠魂碑(明治42年建立)、(三)慰霊塔(昭和40年建立)四、神社建立…(一)明治30年、花輪町民の御寄付金で神殿・幣殿・拝殿建立(二)昭和42年、花輪・柴平町民の御寄付金で再建立(三)平成27年2月の大雪で全壊、現在の社殿に縮小建立。五、桜山神社の周辺は、市の公園として整備され、桜の名所・市民の憩いの場として愛されています。当神社の御霊に参拝して、公園の散策を心から希望します。平成30年3月桜山神社氏子総代会』
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社殿。
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扁額。従三位伯爵南部利恭。
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拝殿内。
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桜山護国神社の横にある八幡神社。
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小祠です。由緒等はわかりません。
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隣にも小祠。棟札らしきものがありますが御幣で見えませんでした。
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こちらの地図でいう若宮八幡社でしょうか。こちらは花輪館に関する案内板の地図なので、桜山護国神社ではなく花輪館北舘に関する神社かも知れませんね。
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ちなみにこちらは鹿角市歴史民俗資料館にあった大正5年花輪町真景図。
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招魂社とともに八幡社も描かれております。大正5年なので当然ですけど。大里氏紀念碑と忠魂碑も描かれていますね。
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桜山護国神社戦没者招魂碑の由来…『【鎮魂碑】戊辰戦争で奥羽越同盟に背いた秋田藩の意をただすため、盛岡藩が藩境を超えて進攻したのは、慶応4年旧暦8月9日のことである。この戦いに鹿角郡でも多数の殉難者を生じ、爾来、戦没者を追善供養するための年弔祭を重ねてきた。明治23年、23回忌の法要に際して追悼の素志を貫くため、鎮魂碑の建設を決め、更に27回忌法要において、旧領主南部家の宗廟である盛岡桜山神社の分霊を、この北館に勧請し、境内に戊辰戦死者記念碑を建て、常に社前君側に列するの栄誉をもって、地下の霊魂を慰むることとし、分社許可を得て、明治30年5月29日、分社遷宮祭、30日招魂祭を盛大に挙行し、ここに桜山神社と鎮魂碑が竣功したのである。【忠魂碑】日清・日露戦争において戦死した忠勇義烈の遺霊を慰めるため、花輪町在郷軍人分会が発案し、町内有志の協賛を得て、明治42年10月30日に建立した。この巨石は用ノ目川原に求め、花輪在郷軍人分会、用ノ目地区民、青年会の奉仕により、悪天候、苦難の中、一里半の道のりを館坂を越え曳き上げたものである。【慰霊塔】昭和40年招魂祭の日に、花輪遺族会の発起により、日清・日露・日中・太平洋戦争において祖国のため平和の礎となった四百七十二柱の御霊の芳名を刻し、永く児孫に伝えんとの悲願のもとに、花輪元軍人並に町有志の賛助を得て、ここに建立した。先の大戦の最中、神社の名称は変ったものの、明治30年より祭祀と戦没者の招魂祭が永々と執り行われてきた。これは先人の建碑への切々たる悲願が貫かれてきたものであり、その崇高なる行為を胸裡に刻み、忘却することなく弔祭を続けんとするものである。ここに戊辰戦争以来の戦没者の義心を顕彰慰霊し、永遠の平和を願い、その史実を後世に伝えると共に、この由緒ある桜山公園が市民の憩の場として親しまれ、愛されることを願うものである。平成18年11月花輪地区遺族会建立』
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招魂碑(鎮魂碑)。案内板(上記)があったので碑文は省略。状態はいいです。明治28年8月9日建立。
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忠魂碑。
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慰霊塔。
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吉田慶太郎君之碑(吉田慶太郎君功労碑・帝國在郷軍人會花輪町分會建立・陸軍大将菱刈隆書)。昭和18年建立
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裏面碑文の状態は良好ですが省略。実は雨が降っていたので面倒だったのです。
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功勞碑。功労碑前には石灯籠一対。崩れていますが。
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碑文…『壽君大里氏碑銘 南部康保君 題額 君姓大里諱宗補通稱壽其先安保上總守往古自京都移鹿角郡住大里村子孫因爲氏延寳中二世之祖宗久仕于盛岡藩重臣中野氏爲世臣焉君天保四年七月二十日生于本郡花輪初名秀助後改稱壽考諱宗模妣大越氏君天資温淳夙有徳望安政四年繼父之後自側役進為用人明治元年藩主轉封白石也列於平民四年廢藩置縣郡屬秋田縣於是任學校主簿尋為戸長六年命副區長七年創設花輪小學校九年寄附小學讀本四百巻焉貸與貧者之子弟以奨就學既而爲地祖改正事務員會評定耕地等級論議百出難決君盡力斡旋克得其當十一年任鹿角郡書記十三年以病辭識十四年擧縣會議員同年復任郡書記十六年辞任十七年再爲縣會議員同年任花輪村組合戸長兼學務委員廿二年町村制之實施也選爲町會議員尋擧花輪町長廿四年郡制之施行也選爲郡會議員兼參事會員君明治五年以還專心圖公益二十年如一日學校役場郡衛警察署裁判所之建造郵便局消防組之設置等無一不賴君力而其費多須于世人之義捐君乃謀之衆衆輒恊贊無不立辨雖基民心之敦厚非由君之徳望安能如此乎君以數獻金寄物官賞賜銀杯木杯者前後十數回如賞金褒状不遑枚擧廿五年官賞君功勞賜藍綬褒章本縣町村長之受賞此爲嚆矢越一年有 詔振興海軍君感激 聖旨請官將有所獻不聽而賜以感賞誠意之旨其忠誠圖報効率如斯二十七年町民贈銀杯以謝積年之勤勞三十年復士籍丗七年告老辞識卜居于屋南爽(土+豈)之地吟嘯自樂偶得病三十九年十二月三十日歿享壽七十有四葬長福寺先塋事詳于明治褒章録君為人謹厚善與人交行事不苟故過鮮矣曽父病君看護不解衣帯者月餘人感其至孝甞奉舊庄一族於其家昕夕敬事有年矣人嘆其髙義雖在繁務綽綽有餘裕夙喜俳諧常與諸名家相唱酬一眺乃其號也有集存于家配川口氏生二男二女而先歿長均太郎夭次禎次郎繼家繼配太田氏有三男三女日文五郎爲醫學士有聲譽中壽逝矣日武八郎爲法學士任臺灣總督府判官日周藏亦爲醫學士繼兄之志可謂大里氏有子矣茲年故奮胥謀欲樹石勒前勲埀不朽令余銘銘曰 奉承朝旨 勤劬執規(矢+見) 督勵敎學 以進民知 廣冨公是 事事皆熙 始終一貫 忠孝為基 亟拜榮賜 藍綬銀巵 傳記布世 非余諛辭 勒銘貞石 爲記功碑 大正六丁巳初夏 川口直齋識 川村眞明書 山田亀吉鐫』
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「鹿角りんご始祖 佐藤要之助大人之碑」。従三位勲三等農学博士恩田鉄弥書。昭和16年11月鹿角郡果樹協會建立。石工田中清一刻。
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躑躅植樹記念碑(昭和47年度42歳寿会・協賛花輪営林署)。
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皇太子殿下御誕辰記念碑(昭和9年4月23日)。
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小田島艸于句碑「籬結わすたゞ春水をめぐらして」(草于77才記念・昭和33年5月3日建立)
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川村左學翁之碑「常なきをつねとおもへはうらみ無しくもりし空のはれぬものかは」。正五位勲三等川村竹治謹書。大正3年9月新撰社建立。
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雲樓小田嶋翁之碑。亜洲川村竹治書。昭和10年建立。
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