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花輪一帯は秋田藩と津軽藩に隣接し、尾去沢鉱山など鉱物資源の豊富な地域として南部藩として重要視された地域の1つでした。そのため、花輪城は一国一城令の中、陣屋構えとして「要害屋敷」として幕府に認められました。主郭の規模は、東西200m・南北110mで段差4mの上下2面に分かれおり、西側の上面に中野氏の陣屋があって本丸と呼ばれ、東側下面は二の丸と呼ばれ花輪通代官所などが建っていました。
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鎌倉御家人安保氏が臥牛本館に拠り、花輪次郎を名乗ったのが始まりとされます。中世の大館の一角を利用したもので、御館・北館・南館からなる連郭館であり、幾多の興亡の後、天正18年(1590)に三戸南部の支配下の大光寺正親が城主となり、以来重臣による城代、郡代への交代が相次ぎ鹿角治安と境界守備の責任を担い、明暦3年(1657)毛馬内九左衛門長次が古館に入り、延宝2年(1674)中野吉兵衛康敬が入部、樋口館(要害屋敷)にはいり、秋田藩境への守備に当たりました。
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鹿角市立花輪小学校のグラウンドが本丸跡、校舎が二ノ丸(根市源右衛門家)跡です。
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グラウンドには土塁が残され、物見跡に位置する北西隅に八幡宮供養塔があります。
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鹿角市歴史民俗資料館にもある花輪町真景図(秋田縣鹿角郡花輪町真景図・大正5年)。
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花輪館付近。
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大正5年の絵図なので既に花輪尋常高等小学校となっており、絵図を見る限りでは現在のグラウンド部分も校舎になっています。
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皇紀2600年記念碑と二宮金次郎像。
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搦手口・北館入口へ下る舘坂(タテ坂)上。
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二の丸(花輪通代官所跡)標柱…『盛岡南部藩の代官所がおかれ、(鹿角郡)花輪通の村々を管掌した。』
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鹿角市立花輪小学校の門から少し下った場所に南館への登り口。
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ちなみに左へ登る道が南館、右へ降る道が盆坂です。
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南館への登り口へ行かずに道なりに左に向かうと正面丁字路正面に荒屋敷八幡神社鳥居があり、そこを左に少し下ると御倉の下です。
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御倉の下…『藩政期、花輪通代官所米蔵の下で、福士川に達する長い空堀ともなっていた。』
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案内板「花輪館について」より…『ここ花輪小学校のある場所は、最初花輪氏が屋敷をかまえていました。鎌倉時代、鹿角各地の豪族の住んだところを館といい、戦いの時にはとりでにあんるように小高い場所にありました。そうした館が四十二カ所あったといわれ、鹿角四十二館とよばれています。花輪館もその中のひとつで、郭といういくつかの部分からできており、郭と郭の間は急な斜面で、敵に攻められにくいようになっています。その内の本丸や二の丸には堀や土手が作られ、屋敷のまわりには塀がめぐらされていました。花輪氏は前は近くの古館という場所にいましたが、後に花輪館の本丸に移ったといわれています。しかし天正年間(1573-1592、織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代)には南部氏と戦って破れ、かわりに大光寺氏が入り、城を中心に家臣を配置して、花輪の町並みが作られていきました。その後、毛馬内氏、中野氏が城主となっています。江戸時代もっとも長く花輪を支配していたのは中野氏で、延宝2年(1674)秋田藩との境目を守る仕事等を命じられて、中野伊織という人が花輪城代となりました。当時の鹿角は南半分が花輪通、北半分が毛馬内通となっていて、そのうちの花輪通をまかされたのです。中野氏は後に南部氏の姓を許されて花輪南部氏とも呼ばれています。現在のグランドがある場所いは本丸があり、校舎のある場所が二の丸です。本丸の中野氏の館は御仮屋などとも呼ばれていました。もっとも中野氏本人はほとんど南部氏の城がある盛岡におり、その家臣たちが盛岡と連絡を取りあいながら仕事を進めていました。二の丸には盛岡藩(南部藩)の代官所があり、御官所と呼ばれました。花輪町に関することや、人々の暮らし、警察・消防に関することなどを行うのが仕事でした。明治3年(1870)ここに江刺県花輪分局が置かれ、後に足尾銅山鉱害反対運動で有名になる田中正造が若いころに勤務していました。本丸や二の丸のまわりにはいくつかの郭があり南館には以前鐘撞堂がありました。今は桜山公園になっている北館には、鉄砲の練習場である星場や神社などがあり、鹿角のためにつくした人々の記念の石碑なども見ることができます。平成23年8月花輪史談会改築・建立』
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