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三戸郡五戸町上市川。北市川の大峯嶽(大峰嶽)神社。北市川部落の西方300mの森の中に鎮座。
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鳥居をくぐって杉並木を50mほど進むと小高い丘上に五間四方の社殿が鎮座。
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社殿。社殿の脇には約200年の杉が森をなして繁っています。
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社殿はかつて萱葺屋根でしたが昭和56年3月20日に屋根ふき替えと鳥居の新装をしています。
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御祭神は千手観音菩薩。例祭は8月16日。
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6.5
拝殿向拝唐破風懸魚、蟇股。
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木鼻。
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8.5
扁額「大峰嶽」(大正15年7月)。
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本堂中央祭壇には御神体の千手観音の木像。高さ約50cm、幅20cm。細長い箱の裏戸には「青森県陸奥国三戸郡五戸在又重字槍水・本田藤太郎・明治二十年六月十七日、主、佐々木久之丞・妻美喜」と銘記。棟札には「奉造営北市川村大峯嶽豊受大神詞壱宇 斉主 神主 浪打磐(八戸)」、「明治二十年五月二十九日(旧閏四月七日)願主北市川伍長佐々木久之丞(千春)現戸主 賛成者伍長橘清之助(朋一郎)〃橘与十郎(二郎)〃橘酉間(徳蔵)〃田代岩吉(幸一郎)大工棟領越後清助」とあります。堂内にはその他、大正15年7月消防組第一部三号の額や、明治30年2月1日佐々木岩蔵納額等の文字や建設寄付名簿板などがあります。中央祭壇の上部神額「大峯嶽神社」、両脇には金剛力士のようなものが見えました。土地所有者・別当役の世襲をつとめてきた佐々木千春氏(明治45年生)によりますと、「先祖は高度の仏教信者ではなかったか。しかし、岩手県境の番屋から200年以上前に移住して来た時はどんな姿か定かではない。悪くいえば六部か貧乏人、落人という所かも知れない。130年前、火災で書類が灰になり、証となるものは全然ない。推理であるが、藩政末期には頭角をあらわし、久之丞のころに栄えてきたらしい。その一つとして維新の官地払い下げなどの古文書に久之丞が筆頭者として資料に出ている。大峯嶽は以前から祠のある所に千手観音を祀ったのか、明治20年5月29日造営とあるので、神仏混合から神社にしたものか詳細については今後の調べを待つほかない。神社の彫物と仏像の千手観音を製作した人物は又重の本田藤太郎であるのか、子孫から聞いてみたい。建物や木造の観音像は94年前のもので1回も修復していない。御縁日の8月16日には、村の人々が家庭円満、安産祈願、病魔追放を祈ってお神酒上げをしている。夜は相撲大会や盆踊りを開く年もある。56年3月下旬、250万円で屋根のふき替え落慶式を行った。お宮の柱の裏側に"円にしも従四つ目"の家紋を入れている。これは佐々木家の紋章を刻んだもので、以前は個人所有だったが戦後になって部落の人々が氏神様としてお参りするように変ったものです。」とのこと。
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社殿廻廊の祠。木札には昭和13年旧7月17日、願人北市川橘よしゑと墨書されていましたが、中央部分は読み取れず。写真かな。
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社殿向かって左の建物は水分神社。
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社殿内。棟札2枚には「奉再建水分神社鎮座當部落安全萬民豊楽祈処 天下泰平国土安穏 風雨順時 五穀成就」「明治二十一年旧三月十四日正遷宮 祭主神道修成派 權少講義市川圓三 旧神主市川大治 惣代兼世話人佐々木久之丞 伍長橘清之助 橘與十郎 橘酉間 當村中 大工棟梁田代吉太郎 佐々木留 宮守兼伍長田代宕吉」
「奉再建水分神社鎮座當部落安全萬民豊楽祈処 天下泰平国土安穏 風雨順時 五穀成就」「昭和五十六年三月吉日再建 神主田代孝一郎 建設委員長橘武男 委員橘朋一郎 委員橘徳蔵 委員佐々木幸一 委員橘賢治 委員橘徳美 委員佐々木実…(以下省略)」
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社殿向かって右の建物。
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こちらには石殿があります。
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馬頭観世音です。
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石殿の横にあるこちらは頭部欠損のため判断しかねますが…馬なのかな。
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小祠。
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中には石が奉納されていました。
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小祠。
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こちらも石が奉納されています。
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