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弘前市藤沢野田。
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元弘3年(1333)鎌倉幕府執権北条高時が治める鎌倉幕府は、後醍醐天皇の倒幕計画によって滅亡しましたが、幕府の重臣安達高景、名越時如らが幕府の再興を期して、奥州にいて反撃の機会をうかがっていました。それに対して朝廷は北畠顕家を陸奥守に任じ平定、落ちのびた軍勢が最後まで応戦。それがこの地であり、持寄城の戦いであると伝えられています。現在では1本の供養塔が残るだけですが、当時は周囲を堀で巡らせて堅牢な柵を築く山砦だったといわれています。
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4.5
持寄城跡…『この地にあった持寄城は天険の要害に加えて、周囲には壕を、頂きには柵をめぐらした山砦でした。俗にメノコ館といわれ女酋長が居住して津軽の蝦夷を統括したという。元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡にさいし、その敗走の軍勢が津軽に落ちのび、最後まで抗戦したのが歴史に残る持寄城の戦いである。当時難攻不落といわれた持寄城の攻防も山上に築いた砦であったため、この年の異常気象には抗し得ず、建武元年(1334)11月18日夜、籠城の諸将も戦況の限界と、北条氏への恩顧に報いる努力を果し得たことを確認して、遂に砦に火を放って軍門に降ったという。』
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遺構は…探す気になれない状態です。
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6.5
持寄合戦使者有縁無縁供養塔(昭和50年11月19日建之、裏面発起人及び賛助員名省略)
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