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山形県飽海郡遊佐町吹浦西楯。
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サンセット十六羅漢。
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当館より西方、徒歩2分ほどに位置する海岸の自然岩石に、22体の摩崖仏と獅子像があります。吹浦海禅寺21代寛海和尚が、日本海の荒波で命を失った漁師諸霊の供養と海上安全を願って1864年(文久4年)に造佛を発願し、遊佐町升川の石工たちを指揮し5年の年月をかけて明治元年に22体の磨崖仏を完工しました。16の羅漢に釈迦牟尼、文殊菩薩、普賢菩薩、観音菩薩、舎利仏、目蓮を合わせた22体があります。整備された遊歩道からは10体の石仏と、獅子を見ることができます。
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まずはサンセット十六羅漢で予習します。
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このように食事をしながら案内板の説明を読み、配置を頭に叩き込みました。
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とか言いながら、麺類を胃に叩き込んだだけです。
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一応このような地図は手に入れましたが、正直とてもわかりにくいです。
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十六羅漢(文:遊佐町文化財保護審議会会長菅原傳作)…『吹浦駅を西北に約1粁の海岸に、本町随一の名勝十六羅漢岩が日本海に突き出ている。西鳥海火山の中腹に富士山型をした観音森が寄生火山のような形で形成され、その上方に猿穴の噴火口が大きな口を開いている。その昔、この火口から流れ出した溶岩流は、観音森で二た分けされ、流れの一つは三崎山となり、一つは吹浦山となり、各々その末端は日本海の荒波にその脚を洗われているのである。吹浦山一帯の溶岩は吹浦溶岩と呼ばれ、複輝石安山岩で、十六羅漢はこの溶岩に刻まれたものである。このあたり一帯は奇石怪岩に富み、一衣帯水日本海の孤島飛島を望み、風光明媚、まさに一幅の名画を見るの感がある。吹浦は、もともと漁村で、漁師の宿命として昔からどんなに多くの人達が荒波に命を失ったことであろう。海禅寺第21代寛海和尚は夙にこのことに胸を痛め、諸霊の供養と海上の安全を祈り、衆生を救わんと、羅漢の造佛を念願していたが、発願したのが元治元年(1864)のことである。寛海は、自ら近村は勿論、遠く酒田まで托鉢して勧化につとめ、一方、升川の石工たちを指揮督励して刻苦すること5ヶ年、明治元年漸く22体の美事な摩崖佛を完工したのである。像は、自然の岩石の姿に合せて刻むことを心したものであるという。十六の羅漢に釈迦牟尼、文珠、普賢の両菩薩、観音、舎利仏、目蓮の三像を併せて22体であるといわれている。寛海は、只管に漁師の身の上を案じながら刻んだものであろう。以来約120年の間、この佛たちは冬の海の怒濤逆巻くを見ては波静かなれと海上の安全を念じ、春の海の駘蕩なる様を見れば大漁たれと漁師の幸せを冀ってきたに違いない。いわばこの佛たちの願いは寛海和尚の切なる願いである。今に寛海和尚は生きているのである。十六羅漢岩の眺望台に、碑が2つある。一は齋藤勇の「母川回帰」の歌碑であり、一は佐藤漾人の「鳥海の鳥曇」の句碑である。岩の東方百米の道傍に「吹浦かけて夕涼み」の芭蕉の句碑のあることも忘れてはならない。』
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それではドルチェのソフトクリームを食べながら出発!
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新奥の細道コース案内「十六羅漢と夕日のみち」。
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交通安全聖観世音像。
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「何時來ても心奈古女る南光眺 釜磯湯之田 指呼乃飛島」耕茶
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まずは十六羅漢岩展望台へ。
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「冬耒れば母川回帰の本能に 目覚めて愛し鮭のぼりくる」勇。
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案内板より…『先人たちの長年の人工ふ化事業の辛苦のもと、月光川で生を受けた鮭の稚魚が、遠く北洋の旅を経て、再び母なる川月光川の清流を慕い帰ってくる姿を詠いあげた一首。南遊佐村(現酒田市)に生まれ育った歌人。齋藤勇氏の作』
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「吹浦も鳥海山も鳥曇」漾人。
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案内板より…『渡り鳥が北へ帰って行く頃の曇りがちの空と、長い冬を終えようやく春も来ようかという頃の吹浦の海と、まだ雪を残してそびえたつ鳥海山の景色をひとつにとらえ詠んだ句。最上郡鮭川村生まれ。医学博士。本名佐藤要人の作』
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石灯籠一基。
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案内板「芭蕉句碑200m・名勝出羽二見200m」。今回はパス。
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名勝羅漢岩の由来…『現曹洞宗海禪寺21代目の石川寛海大和尚が、日本海の荒波の打寄せる奇岩の連る数百メートルに点綴して刻んだ、十六羅漢がある。奇岩怪岩に富んだこの岩石を利用して巧みに佛像22体を彫刻した和尚の努力と精進の程に敬虔の念を捧げます。又和尚は作佛発願以来喜捨金を酒田に托鉢し、一両を求めると一佛を刻し、元治元年より明治初年までの間石工と共に彫刻したのが羅漢像である。正面に釈迦・文珠・普賢の三尊と、その周囲に十六羅漢その他の佛像を配し全部半身佛である。像は岩形に応じその姿態を羅漢にしたのは自然の景観に一段の奇観を添え接する人々の庶民信仰を培う和尚の慈悲心の現れである。昭和50年3月遊佐町・吹浦海禪寺』
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十六羅漢岩展望台にて配置を復習「鳥海山の溶岩に刻まれた想い」…『海岸に見える岩は鳥海山の噴火によって流れた溶岩です。ここには珍しい彫刻があります。奇岩怪岩に富んだ溶岩の石を利用して巧みに彫られてあるのです。いつ、だれが、何のために、この石を彫ったのでしょうか。像の彫刻を発願したのは、吹浦海禅寺21世住職の石川寛海です。元治元年(1864)、寛海和尚は幕末の混乱期に苦難する吹浦民衆の姿を見、また、漁村である吹浦では多くの漁師が日本海の荒波によって命を失うこともあり、民衆の福や徳、除災、海難者の供養と海上安全を祈願し、羅漢像の建造を決意します。石工の手で5年の歳月をかけて明治元年(1868)に十六羅漢岩を完成させました。その後、羅漢像の完成を見届けた寛海は、明治4年(1871)71歳の時、海に身を投げ入滅をはたしました。海岸にたたずむ羅漢岩は、寛海の想いを受け継ぎ今も人々を見守り続けています。』
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十六羅漢周辺マップ。
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展望台から見てもわかりにくいですね。下に降ります。
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この付近はわかりやすいですね。
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地図のこの付近です。
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獅子は横向きです。
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少しだけ離れた遊歩道沿いに観音菩薩。
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北へ向かいます。
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このように途中にもいくつかあります。
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結構わかりにくくて宝探し気分です。
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この付近です。
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途中で何が何なのかわからなくなってきました。もはや全部が十六羅漢に見えてきました。
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目が悪いのでカメラをズームにして探します。
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すべてを見つけるのは中々困難です。
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というよりも、遊歩道からすべてを見ることが困難です。特に北方向は道自体が整備されておらず、途中で諦めました。罰ゲームとしてもう一度ラーメンを食べて帰ります。
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