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弘前市鬼沢猿沢。
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旧裾野村鬼沢集落の西にある黄金山(168.3m)の南西、鬼沢字山ノ越から高杉字尾上山にかけて鬼楢貯水池があります。通称奈良寛溜池。
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溜池の周辺も堰堤もすっかり整備されており、独狐から大森への広域農道も溜池の東側を通っています。県営による土地改良事業も完了し、平成元年にその記念碑として、時の国務大臣防衛庁長官田澤吉郎の揮毫により「盛農寛水」碑が建立されました。
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「盛農寛水」
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裏面碑文(竣工記念 県営奈良寛ため池整備事業 事業概要:受益面積 水田176ヘクタール 事業量 堤高14.6メートル 堤長217.5メートル 貯水量36万立方メートル 事業費 5億5千7百万円 鬼沢楢木土地改良区 理事長藤田勇(※以下、理事・監事・総代名省略)事業主体 青森県 工事施工 株式会社多田組弘前支店 石工 有限会社鯖石石材店 平成元年9月27日)
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この溜池は鬼沢及び楢木(※藩政時代は楢野木)集落の水田170余町歩が度々旱害に苦しめられたため、裾野村第10代村長奈良寛一郎(昭和3年4月3日~同5年1月29日まで収入役、同7年4月1日から同9年12月20日まで村長。昭和30年没)が、鶏川を塞き止めて造ったものです。昭和7年3月に起工し同9年8月完成。これによって両集落はもちろん、特に蕎麦を植えていたという鬼沢字二千苅地区は大いに潤ったといいます。
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この工事は74,500円を要したといわれ、特に南岸は高杉村に属していたため、土地の交換・買収費用がかかりました。それには村の信用組合公金、失業救済人夫賃及び村の農業会関係公金が流用されたらしいです。このため昭和9年11月19日に奈良寛一郎(村長・青年団長)、藤田護(助役・農業会長)、工藤定吉(消防組頭)の3人は公金横領容疑で弘前警察署に検挙され、公判は昭和10年6月28日に開廷されることになりましたが、鬼沢・楢木普通水利組合議員一同が歎願書を提出。その内容は「鬼沢・楢木の水田約二百十町歩のうち百六十町歩は、古来から旱害・水害に遭って、収穫高は他地方に比して著しき差あるを以て、関係者の経済上の苦痛は勿論、水田の管理耕作上等の苦心甚大なものがある。これが改善の方法を講ずることは、実に数百年以来の懸案であった。(中略)氏が万難を排してその実現に東奔西走し(中略)今やその竣工を見、先祖累代の心痛措かざる旱害水害が除去せられ、安んじて耕作に従事し経済上の困難より救はるゝに至ったのである。然るに不幸にして右工事に関し、国法に触るゝ処あるやにて、今や法廷に於てその裁きを待つの身となった。我等部落民は、氏の努力功績に対し無量の感慨と深甚の同情に堪えざるものがある。(中略)御寛大の御裁量を賜はらんことを」というものでした。10月16日に判決があり、懲役1年半奈良寛一郎、同10ヶ月工藤定吉、同6ヶ月岩谷徹栄(何れも3年間執行猶予)となりました(※被告の一人が藤田護から岩谷徹栄となった経緯は不詳)。
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奈良寛親水公園は平成10年に鬼楢ダム(高さ15 m、幅255m、最大貯水量25万m3のアースダム。1932年完成)の周囲に整備された面積8,448㎡の親水公園です。歩いて一周できるようです。
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途中には「やすらぎの広場」「みずべの道」「みずべの広場」「せせらぎ水路」「こかげの道」「こかげの広場」があります。
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ちなみにすぐ近くにはお城もありますよ。
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藤田利一郎句碑(鬼沢俳句会建立)。
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『句碑に記された鬼誓子事 藤田利一郎先生は大正八年小学校教師として教育の道を歩むかたわら 俳句に興味を持ち、昭和六年俳句同人誌「十和田」に入り 昭和三十二年八月十五日御逝去なされる迄俳句の道を探求 その間鬼沢青雲会を設立 後進の育成に務められました 鬼沢俳句会は師の徳をたゝいて此の碑を建立いたしました。』
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溜池南東部の小高い丘。
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奈良寛一郎氏顕彰碑。この顕彰碑は整備後にここへ移されたものと思われます。
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昭和21年になって奈良寛一郎氏顕彰碑が池畔に建立されました。8月15日付で書家高山松堂(亀代作)が、前述の功績を讃える151字の碑文を書いています。裏面には水利組合管理者須藤良次郎(村長)以下の組合議員12名、築堤監督三浦猛、発起人奈良徳一他3名、水門守鳴海小一郎、組合員一同と刻まれています。石工は和徳町の成田由太郎。
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『裾野村鬼澤楢木両部落之水田百七十餘町歩毎年遭旱害所及部落之経済之影響甚大也非救之財両部落将自滅當時裾野村長奈良寛一郎氏痛憂之排百難遂投工費七萬四千五百圓築鬼楢貯水池昭和七年三月起工苦闘二年有半昭和九年八月竣工隄防牢乎貯水漾ニ爾来両部落全得除去旱害於是村民讃其徳乃相謀欲報其恩惠建顯彰碑傳其功績於永久云爾 髙山松堂書 昭和二十一年八月十五日』※自信なし
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こちらは奈良寛一郎氏顕彰碑のすぐ近くにある鬼神堰として大人を讃える碑です。元々どこに建立されていたものかは不明のようです。鬼沢といえば地名の由来とされる大人伝説で有名です。百姓弥十郎が岩木山の赤倉沢あたりに薪を採りに行ったところ、大人(鬼)が現れて相撲をとりました。夜中に弥十郎の家の前に薪が山のように積まれていました。弥十郎が開墾していると、大人が蓑笠をつけて手伝ってくれました。用水に困っていると、大人が赤倉の谷底から水を引いてくれました(※逆さ水)。後に弥十郎も山に入って姿を隠し大人になったといいます。※元々鬼沢村(岩木山北東の中腹赤倉沢)にあった宝泉院の寺号の由来として、新撰陸奥国誌では、赤倉の洞穴に鬼が住み、鬼沢村の農民に用水を確保し、その流水は数千町歩の田に注いでも余りがあり、水源を宝泉といったのを寺号の起りとしています。
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碑文…『往昔鬼神大人岩木山麓ニ股落合及王餘魚沢ノ水路ヲ堰止メ新タニ水路ヲ堀鑿シテ鬼沢村三百三十三人役ノ灌漑用水ニ供シタリ是レ鬼神逆堰ト称ヒ年々祈祷ノ上通水スルヲ例トセリ然ルニ人煙ノ増加ニ伴ヒ年々開拓セラレタル百数十町歩ノ水田ノ灌漑用水ニ不足ヲ告ゲタルヲ以テ昭和七年鬼楢貯水池ヲ築堤セラルゝニ當リ此ノ水路ヲ利用シテ貯水スルコトニナリタルヲ以テ爾今水利組合會議員ト鬼沢三百三十三人役ノ耕作者ト協同シテ鬼神大人ノ遺シ給ヒル水路ヲ監理シ之力維持増進ニ勉メ神ノ惠澤ヲ永遠ニ子々孫々ニ傳ヘンカタメ茲ニ誓約碑ヲ建立ス 昭和二十五年五月十二日』
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裏面碑文…『鬼神堰掛三百三十三人役氏名 明治十二年生 石工成田由太郎』※氏名省略
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裏面碑文(下部)は水利組合會議員名(議長藤田三次郎 藤田又五郎 小野竹 成田勘次郎 小山内能太郎 大鰐民五郎 須藤繁國 葛西長助 成田貴助 髙橋喜之助 角田正夫 棟方豊吉)。
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黄金山の頂上からの眺望がとても良いとのことで、また、溜池から黄金山の頂上までは歩いて30分ほどで着くとのことでしたが、どこから登っていいのかわかりませんでした。
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