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秋田県秋田市寺内大畑。秋田城跡内。秋田縣護國神社。
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社号標と灯籠一対。
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3.5
参道。
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秋田城跡内になります。
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参道にはたくさんの灯籠がありますが、細かくは見ていません。
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齋館。
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秋田招魂社址の碑、高清水公園碑(御大典記念)。
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石灯籠と齋館。
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石灯籠と護国会館。
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神門前。
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手水舎。
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狛犬一対。
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「慰霊と平和を祈念するリレーの火」案内板。
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慰霊と平和を祈念するリレー(Relay)の火。
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境内社と灯籠。※但し境内社としての記録等は見つからず。
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「真之御柱」碑。
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裏面「御解除石」。
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建物上部にはたくさんの絵馬(秋田県護国神社・髙清水宮)。
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殉国秋田県人之碑(御製題字謹書:宮司面山千岳・平成7年8月15日奉献建立、ツバサ広業株式会社代表取締役社長舛谷健夫)。明治天皇御製「かぎりなき世にのこさむと國の為たふれし人の名をぞとどむる」、昭和天皇御製「國のため命ささげし人びとのことを思へば胸せまりくる」を刻みます。
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裏面には「秋田県戦歿者の記録」として、戊辰の役(慶応4年・425)、西南の役(明治10年・58)、日清戦争(明治27-28年・813)、日露戦争(明治37-38年・1,546)、シベリヤ出兵(大正10年・62)の計2,904と、満州事変・支那事変・ノモンハン事件・大東亜戦争の計34,252(死者・住所不明者596)の記録が記されています。なお、戊辰の役から大東亜戦争までの総計37,752柱のうち、戦後ソ連に抑留中死亡者1,281柱。
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門が設けられた敷地へ。
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松と鳥居の柱?
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さざれ石。
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君が代の碑。
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国家、君が代とさざれ石の由耒…『さざれ石は、岐阜県と滋賀県にまたがる伊吹山に堆積している石灰質角礫岩である。石灰石が長い年月の間に雨水で溶解されて粘着力の強い乳状液化(鍾乳石と同質)して、次第に大小の石を凝結し、ついに巨大な巌石となり、河川の浸蝕作用によって地表に露出、苔や草花まで咲かせ、まさに国民団結の象徴である。このようにさざれ石は、鍾乳洞の"つらら"が数百万年かかって成長したのと、同じ原理で形成されたものである。国歌「君が代」の源歌は千百年前に詠まれている。すなわち第55代文徳天皇(紀元1510-1540)の皇子惟喬親王に仕えた藤原朝臣石位左衛門が、美濃(岐阜県)春日谷へきで、渓流に露出している珍らしい「さざれ石」をみて詠んだのが「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」という賀歌であった。これが古今和歌集巻七に採録されるも、身分低い者ゆえ詠人しらずと扱われる。が、後この歌によって位を賜ったので「石位左衛門」と名乗ったという伝承が、岐阜県春日村、藤原氏一族47代にわたって伝わっている。平安末期の古今集註に、「この歌つねには、きみがよはちよにやちよにといへり」とあるとおり「君が代」の形でひろまった。明治13年、この「君が代」に宮内省雅楽稽古所音楽師、奥好義(おくよしいさ)と林廣季(はやしひろすえ)が作曲を合作し、11月3日、明治天皇の御誕生日すなわち天長節(のち昭和3年、明治節と制定される)に楽長林廣守の名で御前演奏したのが最初である。そして明治26年8月27日、政府は文部省告示第3号をもって「君が代」を国歌として公布する。奉納昭和62年11月3日ツバサ広業株式会社』
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こちらはわからず。
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天皇陛下・皇后陛下御親拜記念碑。裏面碑文…『昭和44年8月26日天皇・皇后両陛下、秋田県に行幸啓の御砌り御拜を賜う。仍て永く其の栄を伝えんとし御在位60年の慶祝を迎えるに当り篤志者のまことを募り之を建つ。昭和60年11月吉日宮司謹記』
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神門・灯籠一対。
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神門。
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神門(神明造り)…『この御門は伊勢神宮第61回御遷宮に当り「豊受大神宮瑞垣南門御扉他一部」を拝受し終戦50周年記念事業として造営しました。(平成7年4月25日竣工)この神門をくぐり参拝される方々の更なる「いのち」の若返りと「生成発展」「平安」を心から祈念いたします。』
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神社庁より…『御祭神は護国の神霊(37,841柱)、伊邪那岐命、伊邪那美命。例祭日は4月29日・10月24日。明治元年10月、秋田藩主佐竹義堯侯によって高清水丘に工事が起こされ、この時太政官より金壱千両が下付され、明治2年8月28日に創建成り招魂社と称し、戊辰戦役の「みたま」を祀ったことに始まる。この社殿は明治26年12月夜看守の失火により焼失し、同28年2月社殿再築費補助として政府より金五百円が下付され、県内の有志相議って寄付を募り、明治32年社殿を秋田市佐竹城跡(現在の千秋公園本丸)に建築し官祭秋田招魂社と称した。昭和14年3月秋田県護國神社と改称され、旧社地(現在地)高清水丘に本殿流造の荘厳な社殿の造営が成り、同15年11月15日盛大な遷座祭が行われた。戦後昭和22年10月配祀神として伊邪那岐命、伊邪那美命を鎮祀し、社名を高清水宮と改称したが、昭和27年旧に復し秋田県護國神社と改称した。昭和43年には、御鎮座百年記念奉祝大祭を斎行。平成2年には御遷座五十年記念事業を実施し、奉祝大祭を斎行する予定であったが、7月9日未明心無き者の爆破を受け全焼した。平成3年5月21日地鎮祭を執り行い、平成4年9月竣工し、10月1日本殿正遷座祭斎行、10月14・15日竣工記念奉祝大祭を斎行し、協賛者の参列を迎えて、第6日祭まで滞り無く御奉仕を終えた。昭和44年8月26日、昭和天皇、皇太后陛下、同45年10月26日今上天皇皇后両陛下の御親拝があり、常陸宮様始め各宮様方の御参拝があり、夫々幣帛料を賜った。』
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パンフレットより…『明治2年(1869)に、秋田藩最後の藩主佐竹義堯(よしたか)が高清水の地に「招魂社」として創建し、戊辰戦争の戦役者の御霊を祀ったことに始まります。明治32年(1899)に久保田城跡に再建され、昭和15年には秋田県護国神社と改称し、旧社地である現在地に遷座。第2次大戦後の一時期、軍国主義施設として廃止されることを防ぐため、高清水宮と称し、「イザナギの命・イザナミの命」を合祀しましたが、昭和27年(1952)には再び秋田県護国神社に改称されました。』
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wikipediaより…『秋田県護国神社は、秋田県秋田市にある神社(護国神社)。秋田県下の戦没者および伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀る。明治2年(1869年)、秋田藩主佐竹義堯が戊辰戦争に殉じた官軍戦没者425柱を高清水丘に祀ったのが起源である。明治26年(1893年)に焼失するが、明治32年(1899年)、秋田市千秋公園(久保田城址)に再建され、秋田県出身の軍人・軍属を合祀して秋田招魂社と称した。昭和14年(1939年)、内務大臣指定護国神社として秋田県護国神社に改称し、翌年、旧秋田城址である現在地に遷座した。第二次大戦後の一時期、「軍国主義施設」として廃止されるのを防ぐ目的で、鎮座地名に因んで高清水宮と称し、伊弉諾尊・伊弉冉尊を合祀してこちらが主祭神ということにした。戦後は県に関係した軍人、軍属の霊を合祀している。現在、ほとんどの戦没者の合祀が完了し、祭神の数は38,000余柱となる。平成2年(1990年)7月9日、即位の礼に反対する中核派のテロにより当社社殿にしかけられた2つの時限爆弾が爆発し、社殿は全焼した(大嘗祭のための神饌を収獲する神田が秋田県内に選定されていたことが関係していると見られている)。しかし、本殿内に安置されていた神体および霊璽簿は無傷であった。社殿は平成4年9月に再建された。』
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拝殿正面唐破風懸魚。
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拝殿内。
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拝殿前灯籠一対(昭和63年4月吉日・秋田県遺族連合会婦人部)。
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車御祓所。
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忠魂碑(元帥海軍大将伯爵東郷平八郎書)。
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神社周辺にはキジがたくさんいます。キジついては『秋田城跡(高清水公園)』の記事を参照ください。なお、観光マップを見ると社殿裏方(車祓所の奥方面、上の忠魂碑の奥の道から本殿を迂回)に伊藤永乃介歌碑、五輪塔、明治天皇・大正天皇御休憩所碑、すもう場跡地の木ほか石碑群が掲載されていましたが時間の都合上行きませんでした。
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