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秋田県秋田市寺内大畑。様々な資料があるかと思いますが、主に現地案内板及びパンフレットの内容を中心に説明します。案内板により内容が被る部分もかなりあります。なお、歴史史料館は有料ですが、史跡公園の入園は無料、年中入園可です。
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史蹟秋田城跡周辺案内図…『○秋田城跡とは…秋田城は奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側(出羽国)に置かれた大規模な地方官庁で、政治・軍事・文化の中心地でした。蝦夷の人々が暮らしていた東北各地に、同じように造られた律令国家の地方官庁の遺跡は「城柵官衙遺跡」と呼ばれており、秋田城はその中で最も北に位置しています。天平5年(733)に、秋田村高清水岡に遷された当初は「出羽柵」(いではのき)と呼ばれ、天平宝字4年(760)ごろに秋田城と呼ばれるようになりました。奈良時代には出羽国の政治を行う「国府」が置かれ、また津軽(青森)・渡嶋(北海道)のほか、大陸の渤海国(中国東北部)など対北方交易・交流の拠点としても重要な役割を果たしていたと考えられています。昭和14年には遺跡の重要性が認められ、国の史跡に指定されています。現在は893,733㎡が指定された範囲となっています。○寺内地区の文化財…秋田城のある寺内地区には、様々な文化財が数多くあります。「寺内」の地名は、かつてこの周辺に寺院が多くあり、その内側にあったことから、その名が付いたといわれています。また、丘陵地でありながら清水が湧くため、続日本紀の頃から現在に至るまで「高清水岡(丘)」と呼ばれています。また、秋田城の時代にさかのぼるような伝承をもつ「高清水霊水」、「古四王神社」、推定樹齢1,200年の「旭さし木」。かつて高価な香木でつくられていたという伝承をもつ「伽羅橋」、江戸時代の紀行家「菅江真澄」が眠る墓など、みどころいっぱいです。古代秋田城だけでなく、少し足をのばして寺内地区の文化財を散策してみませんか。』
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史跡秋田城跡案内図より…『○秋田城跡とは?…秋田城は奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側(出羽国)に置かれた大規模な地方官庁で、政治・軍事・文化の中心地でした。蝦夷の人々が暮らしていた東北各地に、同じように造られた律令国家の地方官庁の遺跡は「城柵官衙遺跡」と呼ばれており、秋田城はその中で最も北に位置しています。天平5年(733)に、秋田村高清水岡に遷された当初は「出羽柵」(いではのき)と呼ばれ、天平宝字4年(760)ごろに秋田城と呼ばれるようになりました。奈良時代には出羽国の政治を行う「国府」が置かれ、また津軽(青森)・渡嶋(北海道)のほか、大陸の渤海国(中国東北部)など対北方交易・交流の拠点としても重要な役割を果たしていたと考えられています。平安時代に入り、元慶2年(878)の蝦夷の人々による元慶の乱を経て、10世紀の中頃まで機能しました。10世紀後半には古代城柵としての機能は失いますが、歴史書には「秋田城」の名称や官職名としての「出羽城介」、「秋田城介」が記されています。また、鎌倉時代以降、「秋田城介」は北方を鎮護する役職名となり、武門の名誉となっていきました。昭和14年には遺跡の重要性が認められ、国の史跡に指定されています。現在は約90ha(893,733㎡)の範囲が指定された範囲となっています。○秋田城跡の調査・保存・公開活用…昭和34年から37年までの4年間は国が直接発掘調査を行いました。そして、昭和47年からは秋田市が継続的に発掘調査を行っています。発掘調査によって明らかにされた秋田城の遺構を現地に復元し、平成元年度から史跡公園として整備しています。また、平成28年度には秋田城跡歴史史料館がオープンし、これまでの発掘調査で発見された貴重な遺物を多数展示し、秋田城について詳しく解説しています。是非お立ち寄りください。○秋田城跡の構造…秋田城は発掘調査によって、東西・南北550mの不正方形の範囲を外郭区画施設が巡り、中心部に東西94m、南北77mに区画された政庁域がある二重構造であることがわかりました。外郭区画施設は、奈良時代では土塀に屋根を上げて瓦で葺いた築地塀であることがわかっています。築地塀は本体は土を数cmの厚さに叩き締めながら、基底幅2.1m、高さ3m以上に積み上げられた手の込んだものです。平安時代は築地塀から材木を立て並べた材木塀になることもわかっています。これらの外郭区画施設は、総延長2.2kmに及ぶ大規模な土木構築物です。こうした外郭区画施設の内側である「城内」に様々な施設がありますが、外側の「城外」にも重要な施設があったことがわかっています。』
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地図。
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パンフレット「ダオドリの話」より…『寺内には鳥にまつわる興味深い伝説があります。昔、田植えをしていた早乙女がご飯を食べていると、若い男が現れ、食べ物を分けてくれと頼みましたが、早乙女たちは若者をからかいました。怒った若者がかんなくずで鳥を作り空に投げると大きな鳥になりました。その後、田植えの時には、大群で現れ田植えを邪魔したそうです。その鳥はダオダオ鳴くのでダオドリやダオンと呼ばれましたが、学名はニッポニアニッポン、一般にはトキと言う鳥です。昔、トキが大群で飛来していたという伝説です。寺内には、今も多くの野鳥を見ることができます。特にキジの多さには驚かされます。』
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政庁へ。政庁は秋田城の中枢で出羽国内の政治や国内外から使節を迎えての儀式も行われていました。正殿、東脇殿、北東建物の平面表示により、古代の役所の建物配置を復元しています。晴れた日には正殿から南に鳥海山が見えるそうです。
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政庁東門と築地塀(瓦葺)。
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8.5
東門。
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城内東大路。
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東脇殿跡。
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北東建物跡。
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北東建物跡…『ここでは5回建替えられた建物跡が見つかっています。Ⅰ期-Ⅲ期の建物はいずれも東西の方向に長く、Ⅱ期では、東西両側に壁で仕切られた部屋があり、建物の南には、目隠し塀が付いていました。壁で仕切られた部屋のある役所の建物は、後殿や脇殿に見られますが、分室化されているのは、建物の機能や使われ方に関係があるものと考えられます。Ⅴ期-Ⅵ期の建物は、いずれも30cmから50cm、地面を掘り込んだ竪穴状の内壁に沿って、柱が立てられています。これらの建物跡については、掘立柱と竪穴が組み合う構造や、床と考えられる部分が赤く焼けていることから、火を使用する施設と考えられます。』
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正殿跡。
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正殿跡…『正殿は、秋田城で最も重要な建物です。正殿や前面の広場では出羽国の政務や、定期的に貢ぎ物を持って訪れる蝦夷に対しての贈り物、宴も行われていたと考えられます。また、時には外国からの使節を迎えての儀式も行われていました。この建物は、ほぼ同じ場所で6回建て替えられています。最後の建物は石の上に柱を立てる礎石式の建物ですが、それ以前の建物は直接地面に柱を埋め立てる掘立式の建物でした。創建期の正殿の床には■((セン・土+専)・古代の煉瓦)が敷かれていました。それは、Ⅱ期建物の柱を立てるための穴から多量のセンが出土したことでわかりました。また、元慶2年(878)に起きた蝦夷の叛乱の時、焼け落ちて再建した建物の柱跡から白壁の一部が発見されており、白壁の建物であったと考えられます。』
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付近を散策していたら…
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たくさんのキジがいることに気付きました。
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秋田縣護国神社に寄ってから、外郭東門方面へ向かいます。
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何やらミニチュアコーナーがありました。
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政庁です。政庁とは…『○政庁の機能…政庁は、秋田城跡で最も重要な区域です。政庁内の建物である正殿やその前面の広場では出羽国の政務を執り行ったり、定期的に貢ぎ物を持って訪れる蝦夷の人々を迎え、味方に引き入れる目的で、位階や布などを与えたり、宴を催したりしていました。また、文献史料や水洗厠舎跡から検出した有鉤条虫卵の存在から渤海など外国からの使節を迎えての儀式も行われていたと考えられます。○政庁の変遷…政庁は、区画施設や正殿などの建物の建替えなどから、おおよそ6時期の変遷があったと考えられますが、その中でも大きな変化は、第3期、第5期、第6期に認められます。第3期では、政庁域全体で大規模な整地を行い、創建から政庁を囲っていた築地塀をやめ、柱を等間隔に立て並べその間を横材などでふさいだと考えられる一本柱列塀にするなど、全面的な改修を行っています。また、第5期は878年(元慶2年)に起きた蝦夷の反乱(元慶の乱)の時焼失した後建造したもので、政庁を囲っていた一本柱列塀を材木を隙間なく立て並べた材木列塀に変えたほか、門の構造や建物配置も大きく変化させています。さらに、第6期では正殿や東脇殿といった主要な建物が直接地面に柱を埋め込む掘立柱式建物から石の上に柱を立てる礎石式建物に変わっています。○政庁の特徴…秋田城跡の政庁は、東西94m、南北77mの東西に長い長方形をしています。南を正面とした場合、横長となる政庁は、古代東北の城柵では唯一の例です。政庁域の旧地形は、北が高く南に傾斜していたため、創建時に一般的な縦長の政庁にしようと、南東部分の大規模な盛り土を行うなど南への拡張を試みたが、地形上の制約から必要な面積を確保できなかったためこのような形になったと考えられます。』
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秋田城跡政庁変遷図。
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政庁第1期復元模型(縮尺1/20)。
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22.5
政庁第1期(733年-770年頃)…『政庁は、秋田城の前身の「出羽柵」創建とともにその中心施設として造られました。政庁を造成するにあたっては、旧地形が北が高く南に傾斜していたため、平地部分を確保する目的で、南東部分に大規模な盛り土による整地を行っています。また、政庁内の中心建物である正殿は、白壁で床には■((セン・土+専)・古代の煉瓦)が敷き詰められていたことや、政庁を囲っていた築地塀の屋根には瓦が葺かれていたことが、発掘調査からわかっています。このように壮麗な政庁を造ったのは、在地の人々が見たこともないような中国様式を取り入れた施設を作ることで、律令国家の威信を示すという政策を色濃く反映した結果であると考えられます。』
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政庁第2期復元模型(縮尺1/50)。
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24.5
政庁第2期(770年-800年前後)…『この時期の区画施設は、崩壊した第1期の北半分の築地塀を築き直し、その屋根も板葺きに変えています。また、南半分の築地塀は、布掘りとよばれる溝状の掘り込みの中に、材木を隙間なく立て並べた材木列塀に変えています。この築地塀崩壊の一因には、降雪や凍結など秋田の厳しい冬の気象条件が関係していたものと考えられます。建物については、ほぼ同位置で建替えられた正殿や、東脇殿、目隠し塀を伴う北東建物のほか、新たに北西建物が建てられました。また、第3期の建物の柱穴の埋土に焼土・炭化物が入っていたことから、この時期の建物は、焼失した可能性があります。』
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政庁第3期復元模型(縮尺1/50)。
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26.5
政庁第3期(800年前後-830年頃)…『政庁域全体を再度整地するなど、全面的な改修を行った時期にあたります。また、全体を構成する建物の数が最も多くなるとともに、正殿や東脇殿の規模も変化するほか、改築された東脇殿には廂が付くなど主要建物の構造も変わっています。区画施設についても、北側の築地塀をやめ、南側の材木列塀とともに、等間隔に柱を立て並べ、その間を横材でふさぐ一本柱列塀に変えています。さらに東門も、位置を東辺中央よりやや南側に変えるとともに、その構造も従来の棟門から、八脚門に変えています。』
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城内東大路へ。
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28.4
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グラウンド。
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土取穴。穴が無いけど…
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ここでパンフレットより一部紹介。
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漆紙文書…『①第2号漆紙文書…国が利息と共に稲を農民に貸し付ける出挙(すいこ)に関する帳簿と推定。人名と稲の数量について書かれています。②第16号漆紙文書…死亡者の氏名・年齢・死亡年月日などが戸別に列記されている帳簿です。北陸地方からの移住者であることや、当時の厳しい生活の様子が読み取れます。』
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樗蒲(かりうち・ユンノリ)…『政庁の北東建物から出土した■((セン・土+専)・古代のレンガ)には規則的な穴があけられており、古代の遊びである「樗蒲」の盤として利用されたものと考えられます。韓国で現在も遊ばれる「ユンノリ」という伝統的な遊びともよく似ています。』
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非鉄製小札甲(ひてつせいこざねよろい)…『小さな板を漆で固め連結し作った甲(よろい)です。当時主流の鉄製ではなく革製のため軽く最新鋭の甲でした。板(小札)は740枚以上見つかっており、甲一領分以上の小札が埋まっていたようです。出土した甲は平安時代前期の製作と考えられ、全国的にも類例のない、大変貴重な資料です。』
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胞衣壷・土取り穴…『○胞衣壷…子供の誕生時に成長や立身出世を祈り行うまじない。壷の中には胎盤(胞衣)と萬年通宝(760年鋳造)が5枚入っていました。○土取り穴…築地塀を造るための粘土を採った穴。粘土の採掘後は廃棄物の捨て場として利用され、土器や漆紙文書、木簡など大量の遺物が出土しました。』
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案内板より…『○外郭東門…平成元年度の発掘調査で発見された奈良時代の外郭東門を復元したものです。秋田城の東門の特徴は、軒先につく軒瓦がないこと、部材をつなぐところに舟肘木を使用していることです。木材の仕上げは槍の穂先のような槍鉋という古代と同じ工具で削り、また、表面は丹土を塗っています。○外郭築地…門の横に続いている土壁は築地とよばれています。土を人の手でつき固めながら積み上げる版築という古代と同じ工法で造られています。復元した築地の端は途中で切れていますが、実際はずっと続いていて秋田城の回りを囲んでいました。また、築地の手前にある深さ7mの土取り穴は、築地を積む土を取ったときにできた穴で、後にゴミ捨て場として使われ発掘時には多数の漆紙文書、木簡それに猪、馬、鯨、鳥、などの骨が発掘されました。○東大路…秋田城の外から東門を通り、政庁に向う重要な道路です。素掘りの側溝の跡が発見されていますが、それから推定すると道路幅が12mで、今の道路と比べても立派なものです。ただ、敷石などが発見されていないので土の道路だったと考えられます。』
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36.4
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地形模型図。
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『○秋田城…秋田城は奈良時代から平安時代にわたっておかれた、日本最北端の大規模な役所で、政治・軍事・文化の中心地でした。天平5年(733)に、秋田村高清水岡に造られた当初は「出羽柵」と呼ばれ、やがて天平宝字4年(760)年ころ秋田城と呼ばれるようになりました。秋田城跡は、昭和14年(1939)9月に90ヘクタールが国の史跡に指定されました。昭和47年(1972)から発掘調査を開始し、現在も継続中です。○政庁…秋田城跡のほぼ中央部の地域を政庁と呼んでいます。政庁の大きさは東西94メートル、南北77メートルで周囲に塀をめぐらし、その中に建物が規則的に配置されています。政庁では建物や広場で重要な儀式なども行われました。○外郭築地…秋田城の囲まれていた範囲は、東西、南北とも約550メートルで北西部の角がとれたような形をしています。秋田城が造られた当初は、土を積み上げ瓦葺きの屋根のある「築地塀」で囲まれていました。しかし、「築地塀」もやがて、木材を立てならべた塀に変わったことが発掘調査によりわかっています。』
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38.1
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38.3
38.4
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38.6
城内東西大路。道路面は雨水でぬかるんだりしないよう、敷ならした土を何層にもつき固めて作られていました。
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城内東西大路…『この道路は、政庁から外郭東門に至り、外郭外側までほぼ真っすぐに延びていました。ここが道路だと分かったのは、固く締まった道路面や、東西方向の素掘りの溝である側溝などが発掘調査で検出されたからです。その発掘調査から、6時期の変遷があったと考えられる道路幅は、奈良時代には12m、平安時代には9mありました。今回復元対象とした道路は奈良時代のものです。また奈良時代の道路周辺からは、外郭東門周辺部と同様に周囲に遺構が認められないことから、周辺の利用に関しては建物を建てることができないなど制約があったと考えられます。なお平安時代以降については、政庁にほど近い道路北側が、恒常的に鍛冶等の生産施設として利用されていたことが、発掘調査から分かっています。』
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秋田城跡外郭東門。天平5年(733)の創建時を復元のコンセプトにしています。築地塀とともに古代最北の瓦葺き屋根による壮麗な外観が復元されています。
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41.5
秋田城跡外郭東門は市民が選ぶ都市景観賞を受賞(平成10年度)。
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復元した築地の端は途中までですが、実際は秋田城の回りを取り囲んでいました。
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43.5
外郭東門の先へ。
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古代沼。
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沼…『前方の沼は、縄文時代以前に飛び砂によって沢が堰き止められてできた自然の沼を復元したものです。沼は、城内で行われた大祓などのまつりで使われた人形、斉串、人面墨書土器などを流す神聖な場として利用されています。また沼低の泥炭層からはスギ、マツ、イネなど植物も花粉が多数発見され、現在とあまり変わらないようすであったことがわかります。』
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秋田城跡鵜ノ木地区…『鵜ノ木地区は、秋田城跡を巡る東辺外郭築地塀の外側にあたり、 発掘調査の結果、左図のような掘立式の建物跡や井戸、沼跡などたくさんの遺構が発見されました。建物跡は東西、南北に整然と並び、その一画には杉の木の井筒がおさめられたりっぱな井戸が作られています。井戸の底からは、高清水の地に出羽柵が遷された翌年にあたる「天平六年月」(734)の木簡や「(天平)勝宝五年調米」(753)と書かれた納税を示す木簡、また沼を埋めた整地土からは「…玉寺」と書かれた土器も発見されています。鵜ノ木地区は、これらの遺構や遺物などから奈良時代には重要な役所跡、また平安時代のある時期には寺としても使われたことがうかがわれます。』
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47.5
竪穴式住居跡。
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竪穴式住居跡…『秋田城跡では、奈良・平安時代の竪穴式住居跡が300軒以上発見されていますが、これはもっとも古い竪穴式住居跡の1棟です。床面からは、煮炊き用のカマドや甕、食器類が見つかりました。しかし、この竪穴式住居跡は、建っていた時期や場所から一般の住居としてではなく、建物造営のための作業小屋か、管理のための宿舎として使用されたと推定されます。ここでは地表から下の部分を、焼失住居跡等をてがかりに復元し表示しています。』
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柱列。
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建物。
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鵜ノ木地区建物群…『鵜ノ木地区には大型の建物がたくさん発見されています。建物の配置からみて、この鵜ノ木地区の建物は寺院であったと考えれます。奈良時代の律令国家では、仏教信仰を推し進めており、秋田城のような城柵には付属寺院があるのが通例です。当時の歴史書に秋田城に付属し、「四天王寺」というお寺があった記述があります。また、この地区から「玉寺」と墨で書かれた土器が発見されています。このような秋田城の奈良時代の付属寺院の建物配置は観世音式伽藍配置と呼ばれる配置であり、多賀城(宮城県)や太宰府(福岡県)の付属寺院と同じ配置なのではないか、という指摘があります。当時の鎮護国家思想がうかがわれます。』
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52.8
井戸跡。
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井戸跡…『この井戸は、加工した厚い杉材を円形に組合せて作られています。中から「天平六年月」と書かれた木簡が発見されており、出羽柵が高清水の岡に遷された奈良時代の天平5年(733)頃に造られたものと考えられます。』
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こちらの建物も…
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井戸跡。
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56.5
『覆屋の中の井戸は、平安時代に作られたものです。構造は、厚い板を3-4段井籠組にし、その外側に板を縦に2-3重に立て並べた簡単なものです。板材には、井戸との関係のない切り込みがあることから再利用の材料であることがわかります。周辺の地形は、平安時代も現在と大きな変化がないことから、当時から浅い井戸だったと思われます。また水は古代から涸れることなく今もこんこんと湧きでています。』
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ということで、秋田城跡の紹介でした。見所の一つである古代水洗トイレは別記事にしております。
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なお、以下は秋田城跡の関連記事です。
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