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弘前市境関富岳。平川沿い。富岳(トミオカ)神社。
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社号標「村社富岳神社」(明治39年旧4月8日)。
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明治37、8年戦役に従軍凱旋紀念の為の建立。出征軍人寄附者人名省略。発起人福士茂作、相馬卯三郎。
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境関は御検地水帳に小字として富田・西田・川辺があり、郷蔵屋敷を含めて田畑屋敷86町4反4畝(分米856石4斗2升1合)とあり、枝村の菅野村(享保11年分村。明治9年合併。字菅田付近)は14町8反1畝28歩(分米126石7升)。天保5年の郷村帳によりますと寛政5年に210石4斗、享和2年に102石6斗、文化7年に90石6斗の新田高が書き出されています(菅野村は寛政10年に74石1斗、文政2年に33石4斗)。明治12年共武政表によりますと、戸数57、人口360(男185・女175)、馬31、物産として米と大豆があります。郷土史では大正4年4月で戸数88、人口618、牡馬1、牝馬22とあります。昭和55年の世帯数195、人口817。
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富岳神社は御検地水帳にある「万太夫抱え」の「堂建有之」「三十六間に十四間半」の薬師堂。
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鳥居跡。
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狛犬一対。
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8.2
8.4
8.8
台座。ギリギリ…読み取れず。
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御祭神は大己貴神、少彦名神。例祭日7月8日。境内地500坪、本殿1坪、拝殿9坪。旧村社。創建不詳。本殿(新築)と拝殿(修築)は平成元年10月完成。古来薬師宮と称しており、伝説には延暦年間、坂上田村磨の勧請。上代より地頭、領主は何れも領内の鎮守の社と崇めており、領民の崇敬年と共に加わり、久しくは富田館(沼田)に祀っていたものを、寛永19年(1642)現在地に奉遷。元禄2年(1699)当時の領守、吉町弥治衛門が新たに社殿を建立、鎮守の神として重く崇めたてまつったといいます。以来、境関・菅野(萢中)、日沼・林子野木(日沼内)、大袋、5ヶ村の産土神として崇敬。弘化2年(1845)大袋村葛西勘十郎より祀堂地一反二畝五歩の寄進あり。嘉永年間(1848)大汝(オオナム)少彦名神社と改め、明治初年の神仏仕分けにより富岳神社と改め(明治6年)、村社に列せられ、境関、日沼の産土神となりました。明治42年8月27日神饌幣帛料供進神社指定。大正11年8月21日、日沼村氏子区域をはなれ、境関の産土神となりました。
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手水石。
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石灯籠一対(明治34辛丑年旧4月8日、講中)。
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12.5
狛犬一対(小野豊藏、明治34年4月8日、発起人小野夘之吉、相馬善作)。
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13.5
御神馬(紀元2600年記念)。
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こちらは御神馬の台座かな。日支事変記念。昭和13年4月8日。黒瀧亮三郎、妻トヨ。
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青森県神社庁より…『当社創建の年月日不詳である。延暦の頃、坂上田村磨の建立なりと云ふに、古来薬師宮と称へ、境関・日沼・大袋の三ケ村に建立いたし、以上の三ケ村の産土神として崇敬せられ、当時世々の地頭・領主・領内鎮護として、崇め奉り久しく、富田館の地に祀られしを、寛永19年、現地へ奉遷せられた。元禄2年4月、当時の領主吉町弥治衛門新たに社殿を建立し、領内総鎮守の神として重く奉斎する。自来、境関・日沼・大袋・菅野・林子野木、五ケ村の産土神として崇められる。弘化2年5月、大袋葛西勘十郎より、祠堂田地壱反貮畝五歩の寄進があり、嘉永年間、社名を大汝(オオナム)少彦名神社と改め、明治初年富岳神社と改め、境関の産土神となる。明治42年4月25日村社に列せられる。明治42年8月27日神饌幣帛供進神社に指定せられる。大正11年日沼村氏子区域をはなれ当境関の産土神となる。』
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前回の記事も参照ください。
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社殿扁額。
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松堂敬書。
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参道の敷石(コンクリ)紀年銘(昭和40年6月27日)。
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本殿。
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本殿前石灯籠二対。
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23.5
御大禮記念(昭和3年4月8日、門鳥居石鳥居建設寄附者永代録、発起人福士茂作、福士永吉)。
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境内南西隅に一坪ほどの小堂が2つあり、北に稲荷神(倉稲魂神)、南にお志羅様を祀っています。
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稲荷堂。
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大志羅堂。
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27.5
神社裏手へ。
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28.5
裏から見た富岳神社。
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富岳神社北方付近(北方約200m)が葛西氏の境関館跡地となっており、僅かに堀跡を残しています。といってもすべて私有地の畑だったので未確認。
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昭和60年10月22日、境関館跡に14世紀~15世紀(室町時代、南北朝合一前後)とみられる大規模な建造物(館)跡が発見されたと発表されました。境関館は発掘前までは伝承的な存在であり、戦国期の城館と考えられていました。発掘調査により、平川の河岸段丘に沿って4つの郭があり、西・北・南側に入口の堀割をめぐらし、東側は平川を利用した中世豪族の居館跡。
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出土した遺構は、掘立柱建物跡(数棟)をはじめ、井戸跡49基、かまど跡121基、竪穴遺構31基など。遺物としては陶磁器が1360片、古銭、鉄製品、石製品、炭化米など。掘立柱建物跡のうち、一際大きな遺構は桁行18m、梁行9mの母屋に突出がついた曲屋風の建物にみえ、中門を含む床面積は299㎡であり、館の主殿と推測。出土した陶磁器片は中国の青磁・白磁が主体であり、日本海交易に活躍した安東一族の居館跡と推測(※葛西氏の居城で、安東氏の庶流の和徳城主安倍伊予守の侵攻により落城)。掘立柱遺構から復元を試みた結果、主殿は広縁をまわし、接見の間や控の間、警護の侍が詰める遠侍の間など中廊下でつなぐ大豪邸であり、浪岡御所・浪岡城をしのぐ規模の建物。
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32.5
岩木山が綺麗に望める場所です。
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