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秋田県男鹿市脇本富永寒風山。
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妻恋峠から寒風山パノラマラインを登って行くと、営業されているのかどうか不明な寒風山回転展望台駐車場売店があり、その奥にあります。
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ご覧のように景色のいい場所です。
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4.5
誓の御柱。
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『廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ』
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誓の御柱は五箇条の御誓文を象徴する記念碑です。五角形の尖塔の各面に御誓文の各条文を刻みます1926年から1934年までの間に少なくとも7か所で建設され、そのうち現存するのは、琵琶湖の多景島、愛知県立半田高等学校、同県半田市乙川白山公園、秋田県男鹿市寒風山、三重県四日市市諏訪公園の5か所で、日本国内に数基しか存在しない希少なものとなっています。東京帝国大学教授筧克彥の教え子で内務官僚であった水上七郎が1921年に発案。1926年に琵琶湖の多景島で最初の一基を建設。同年に水上七郎が病死した後は友人の二荒芳徳や渡邊八郎、恩師の筧克彥らが建設運動を受け継ぎました。明治天皇が維新の始めに天地神明に誓った五箇条を、国民が繰り返し唱えるべき標語に読み替え、それを象徴する国民的記念碑を建てようとする運動でした。
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石製・一部コンクリート製。高さ7.765m、土台1辺6.3m。重さ3,975kg。石材は寒風山で採れた輝石安山岩、通称を寒風石とも男鹿石ともいう岩石を使用。
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wikipediaより…『秋田県寒風山の誓の御柱は、男鹿琴湖会が1930年夏季大学10周年を記念して、五箇条の御誓文という明治新政の基本を男鹿文化の道標にしようと寒風山の山頂に建立した。当時の日本は深刻な不況に陥り社会不安が広がっていたので「明治の頃の初心を思い出そう」との呼び掛けを込めた。御柱を建設した男鹿琴湖会(おがきんこかい)は、男鹿の住民が地元の学生を中心に結成していた親睦団体であった。1921年以降毎年8月に夏季大学というイベントを開催し、東京帝国大学や東北帝国大学、東京高等師範学校などから教授や名士を数名招聘し、青年を対象に数日間講演会を開催していた。男鹿地域の青年教育の一大イベントであった。副会長の伊東晃璋が推進していた。伊東晃璋(いとうこうしょう、1889年-1944年)は寺の住職の家に生まれ、地元の小学校で校長を歴任していた。男鹿琴湖会の副会長になり、同会を実質的に取り仕切り、同会の夏季大学をも推進していた。第9回夏季大学の講師選定の過程で二荒芳德と出会った。夏季大学に二荒芳德を招聘したいと考え、1929年6月頃に二荒邸を訪問したのである。二荒は都合がつかなかったが、代わりに同門の渡邊八郎を紹介してくれた。彼が来るのを二荒邸で待つ間、二荒と語り合って意気投合した。同年8月、第9回夏季大学で講師の渡邊八郎らを交えて来年の10周年記念事業について会談したところ、誓の御柱を建設する案が出た。男鹿琴湖会の幹部で数回相談した結果、御柱を建設することに決まった。1930年1月に建設を正式に公表した。当初は二荒芳德が第10回夏季大学の講師として男鹿に来たときに除幕式を行う予定であったが、性急すぎたので第10回夏季大学では地鎮祭のみを行った。伊東はエネルギッシュであるがクセも強く、悪い噂を立てられた。「伊東は授業を休んで建設運動して回っている」とか「御柱の菊の御紋は偽物だ」とか「御柱の御文字は閑院宮様の書かれたものでなく、本物は伊東が持っている」といった噂である。伊東は気にせず建設に邁進した。建設に際して男鹿琴湖会の役員が近隣の町村を回って寄付を募った。小中学校や各種学校、婦人会などの団体、企業のほか、遠く中国や樺太からも寄付金があった。男鹿の男女青年団や小学校、主婦会の人々の勤労奉仕のほか、趣旨に賛同した秋田県内外の多くの人々の労働奉仕もあった。石材には寒風山で採れた輝石安山岩を用いた。採掘地で粗削りした後、小学生・青年団員・消防組員・主婦会などが協力し、山頂まで距離約1.7km・高低差190m、重さ1,060貫(3,975kg)の石材を人力で引き上げた。モデルは琵琶湖多景島に立つ青銅製の御柱で、寒風山の御柱もその名を採り、その造りを学んだ。船川港町在住の石工職人が制作した。起工から約3か月で完成し、1930年10月24日に除幕式を挙行した。戦後1964年8月1日、秋田県観光開発に伴い移設された。寒風山の頂上に回転展望台を建設することになったので御柱を頂上より一段低い現在地に移したのである。1984年9月23日、修復を完了した。2010年4月1日、男鹿琴湖会から男鹿市教育委員会へ寄付された。2014年3月20日、男鹿市の有形文化財に指定された。』
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誓いの御柱について『誓いの御柱は明治元年日本が世界に宣言した五ヶ条の御誓文を石に刻んだものである。誓の御柱は昭和5年10月24日、男鹿琴湖会夏期大学開講十周年を記念し、故二荒芳徳伯爵の指導のもと、故中川重春会長が中心となり、文部省を始め全県の協賛を得て寒風山頂に建設、以来行事を多彩に継承、男鹿文化の道標と仰がれ、昭和39年8月1日秋田県観光開発に伴いこの地に移設、昭和59年9月23日修復竣工する。男鹿琴湖会は明治32年、当時秋田市の中等学校に学んだ男鹿十一ヶ町村現在の男鹿市、天王町、若美町出身学生で結成、会称を八郎潟の別名「琴の湖」に因んで名づけ現在に至った。平成6年9月吉日男鹿琴湖会』
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裏面『五箇條の御誓文は明治元年3月14日、明治天皇が文武百官を率いて、紫宸殿におでましになり、新政の基本方針として神々に誓われ、また国の内外にその趣旨を明らかにしたものであります。明治維新は、古い封建的な体制から近代日本へ移行する重要な変革であり、その基本方針としてのこの御誓文は、まさに、現代日本の夜明けを告げたものであります。我々は、この御誓文を熟読して、崇高な精神に触れるとともに、いつまでも滅びない生命が輝きつづけることを祈り、あらためてこの遺訓をたたえたいと思います。昭和39年8月1日男鹿琴湖会』
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菅江真澄の道「寒風山(男鹿の秋風)」
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『「文化元年(1804)8月21日雄潟の渡しで天王から船越を経て寒風山に登る。」昔、この寒風山の名を妻恋山・また羽吹風山ともいったということである。ようやく、よじ登ってみると、八尺あまりの九層の石塔がある。どのくらい年数を経たものであろうか、そこに苔など生いひろがっている。この塔のそばに倒れている近世の石碑に、梵字がかすかに見られた。右手の谷に岩山があり、そのあたりの落窪になっているところを「旧珠の池」といい、大蛇が通ったという大岩がある。この寒風山の麓は、湖と海にとりまかれていて、ちょうど近江国(滋賀県)の伊吹山に登り、左方に毛無山、右方に貝津、山本山など見わたしたようで、三千世界も一望のうちに尽きるかと思われ、すばらしい眺望であった。』
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明治百年祭施行記念之碑(秋田県副知事松橋藤吉書、昭和42年9月24日明治百年祭奉賛会・秋田県男鹿琴湖会建立)。
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男鹿琴湖会長目黒邦之助祝歌。
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寒風山回転展望台の駐車場から見た誓の御柱。
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