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秋田県湯沢市稲庭町万田平。国道398号線沿い。曹洞宗象像山善龍禅寺。御本尊聖観世音菩薩。
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千手観音。
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平成23年5月建立。
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六地蔵。
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山門。
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現在の山門は平成元年に建替えられたものです。入母屋、銅板葺き、一間一戸、四脚楼門。上層部には高欄が廻り「象像山」の山号額が掲げらています。
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稲庭は南北朝期から見える郷村名。出羽国雄勝郡のうち。貞和5年12月29日熊野先達檀那系図注文案に「出羽国山北山本郡いなにハ殿・かわつら殿」とあるのが初見史料。雄勝郡内の稲庭・川連の地を苗字としていた小野寺一族とみられ、地名の成立が先行。流布する「小野寺系図」の多くは近世時作成ですが、建久元年大河兼任の乱平定後、雄勝郡地頭職に補任された下野国御家人小野寺通綱が所務執行のために四男重道を派遣し拠点としたのが稲庭であると伝えます。鎌倉中期に経道が構築したという稲庭城(鶴ケ城)は大森山を背後にした堅固な山城であり、皆瀬川流域迫を眺望し、水系を扼す地点にあります。皆瀬川から取水し迫を潤す中世期造成の五ケ村堰は稲庭内堀ともいわれました。雄勝郡内に蟠居する小野寺一族が下野国小野寺惣領家から自立するのは応永年間といわれ、中でも勢力を強めた稲庭系小野寺氏から戦国初期に稙道が出て、雄勝・平鹿両郡を制覇し、宗家の居城を沼館城、次いで横手城に移します。天正18年当時の稲庭城主は稲庭道勝であり、この時点でも一族の川連・三梨・東福寺各氏らの盟主的立場にありました。太閤検地で稲庭領は太閤蔵入地に指定され、城主の指出高1万刈(70石=70貫文)のうち3分の2を上納させられています。当時の稲庭領は現在の皆瀬村一帯までも含む領域でした。稲庭氏菩提寺の曹洞宗嶺通山広沢寺は、城の東南麓小沢に長禄元年の開基。境内に文明3年小野寺道忠の五輪塔墓があります。その他、真言宗金米山長楽寺、曹洞宗亀像山善竜寺を付近に再興、熊野三社を勧請(大永7年奉納の懸仏3躰は県重文)、三島神社など10社をまつっています。蔵入地代官として乗り込んだ最上勢との抗争の中で、慶長2年に城は落ち、同6年小野寺家改易を迎えます。慶長19年検地帳では田60町774石・畑屋敷30町175石余とあり、名請人に小野寺氏・佐藤氏など旧稲庭家臣が多数含まれており、番匠・鍛冶・染屋・座頭・禰宜・御家人などもいます。当村は皆瀬川流域13か村の寄郷を統轄する親郷であり、特に町場を持つ稲庭本郷は秋田・仙台両藩を結ぶ栗駒越え脇街道の宿場町に指定。延宝6年以降六斎市(1・6の日、本町・中町・新町で交代担当)も公認。親郷肝煎は佐藤家が勤めました。寛文5年に中町の肝煎一族佐藤吉左衛門が、三梨村産の小麦で干饂飩を製造し、藩主御用品の指定を受け商品としても通用。砥石山の石材や紙すきも有名。中世以来の寺社のうち、広沢寺は秋田郡山内村松原補陀洛寺末寺、善竜寺は同郡泉村天徳寺末寺に編入、村鎮守は神明社(後の三島神社)、その他11社の別当を村内の長楽寺と修験3社が兼務。明治5年三島神社は郷社となります。
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池と灯籠。
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巨木の切り株。
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善龍寺の創建は長禄3年(1459)に大運和尚が草庵を設けたのが始まりとされ、当初は地徳庵と称していましたが、大永元年(1521)に大館寺屋敷に境内を移して地徳院に改称。
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領主である小野寺家から篤く庇護され文禄3年には小野寺晴道により小野寺家の香花所として稲庭町岩城に遷され、改めて寺号を「岩木山善龍寺」に改称し曹洞宗寺院として開山。
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慶長5年の関ヶ原合戦の折、小野寺家は西軍に与し、東軍に与した最上家と対立したことで改易となったため庇護者を失いました。その後は周辺住民を檀家とする寺院になりましたが、多くが皆瀬川の対岸の小安街道沿いに住んでいたために、寛永元年に現在地に境内を移し、久保田藩の藩主佐竹家の菩提寺である天徳寺の末寺となりました。
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釋迦誕生佛(昭和53年秋)。
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安楽地蔵尊。
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本堂は平成8年に改築されており、木造平屋建、入母屋、銅板葺、平入、桁行8間、正面1間向拝付、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、正面花頭窓付。
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内部に小野寺晴道の念持仏である観音像が御本尊として安置されています。寺宝の釈迦涅槃図は、雄勝郡出身で江戸時代初期から中期にかけて活躍した戸部一閑斎(1645-1708)の晩年の作。六地蔵立像は江戸時代中期の延享4年に名僧として知られた宝蔵寺十二世潜巌観機和尚(潜巌)の作。
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