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平川市高木原富。真宗大谷派(浄土真宗)尾上山善応寺。御本尊阿弥陀如来。
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有形文化財書跡「比叡山回峯行発願文壱幅」標柱(昭和63年6月27日平川市建立)…『明治27年5月、正井観順が出家して十六谷に回峯行三千日を発願したが二千五百五十日で五十一歳の生涯を終えた。此の発願文は二千日回峯達成し、観順満四十八歳の時の揮毫である。』
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平川市指定文化財「阿弥陀如来立絵像」標柱…『寺伝によれば、室町時代の延文2(1357)年に制作したものとされる。作者不明。顔料として緑青や珊瑚などを使い、後光は金泥で描かれている。現存する平川市内最古級の仏画とみられている。』
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新撰陸奥国誌によりますと、明和元年、感随寺(黒石市)の僧智休の弟子善正が建立。善応寺の来歴書によりますと、安永8年尾上村の住民内山安右衛門の二男善正が、弘前の真教寺、黒石の感随寺の許可を得て道場を開き、善正寺として開基。二世住職は感随寺智休和尚の三男慈海が継ぎましたが、嘉永元年に火災に遭い、同2年再建。その後、明治元年に三世住職祥玄和尚が羽後国(山形県)酒田の善称寺から来寺し、同3年に善応寺と改名して現在の寺の基礎を確立したといいます(※一説には改名は嘉永3年)。現在の建物は昭和55年7月完成。平成11年山門再建新築。寺所有の正井観順の「比叡山廻峰行三千日発願文一幅」は昭和51年に町文化財第4号に指定。「阿弥陀如来立像画幅」は昭和59年に町文化財第12号に指定。
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大石良文の墓石(棹石:丈69.5cm、巾27.3cm、厚44.8cm)。
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大石氏は元禄15年12月14日夜(15日払暁)、吉良邸に討ち入りし、主君の仇を討った赤穂浪士たちの中心人物である大石内蔵助良雄と同族の大石氏。津軽藩の大石家は元禄6年4月に大石郷右衛門良麿が、4代藩主津軽信政に召し抱えられたことに始まります(良麿の祖父信云の代に本家大石家から分家)。最初は江戸詰でした(200石)が、元禄7年7月に津軽に移り、その後300石となり、最後は400石に加増、側用人にまで昇進。郷右衛門の父は、本家大石と同じく播州赤穂浅野家の藩士(450石)でしたが、事情により浪人となり、江州大石荘に帰り、更に大津に移り住みました。その後、京都で子息共々近衛家に仕えました。津軽家は初代為信以来、近衛家とは縁が深く、また、信政公は山鹿素行に師事したことから播州浅野家とも親交があり、良麿は津軽藩召抱となりました。なお、郷右衛門並びにその父、弟たちは陰ながら赤穂浪士の仇討ちを支援(※従兄弟信清は浪士の一人)。繁三郎良文は、郷右衛門良麿の六代めの後裔で、明治4年の廃藩により、高木村原富に在宅(在宅士族)しましたが、明治6年5月3日に在宅地で死去。なお、良文の子孫は再び弘前に移住し、現平川市に縁者は残っていません(※『続つがるの夜明け』上巻参照)。
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正面「大石良文墓」、側面「鎮守府将軍藤原秀郷胄世食近江栗太郡大石荘因以為氏」、側面「明治六癸酉年 信解院殿良文日見居士 五月廿三日
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