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秋田県男鹿市北浦北浦杉原。
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山門は旧弘飯寺の山門を移築。
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扁額「霊鷲山」
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臨済宗妙心寺派霊鷲山常在院。
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5.5
久保田大悲寺末。御本尊釈迦牟佛。
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男鹿三十三ヶ所観音霊場24番札所「千歳経し庭松がえに聲たてて法を言祝ぐ鷲の山風」
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寛正年間、安東氏の菩提所湊福寺(高乾院)末寺として開創。九鬼山常在院と称し安東氏の庇護を受けます。延宝5年、全良寺開祖新州祖嶺の教えを受け継いだ竹院祖徹が中興、京都妙心寺の直末寺に。この際、江戸高輪東禅寺の嶺南崇六を勧請開山、新州祖嶺を中興開山とします。常在院には所属する仏堂が7棟あり、そのうち真山の万体仏堂が県指定の文化財にされています。
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本堂扁額。
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本堂内。
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昭和49年4月1日発行の雑誌「あきた」より一部抜粋…『(前略)"霊鷲山"の額がかかっているこの山門は、旧弘飯寺の山門を移築したものとか。並んで右手の方に真新しい鐘楼が見える。この寺は今からおよそ五百年前、御花園御宇寛正年中(1460)に、九亀山常在院として既にあったといわれているが、遠い昔のことについては定かでない。開山の賜諡は大天法鑑禅師嶺南宗六大和尚。九亀山常在院は再三の火災により、縁起、絵賛、仏像仏具等はすべて焼失したという。秋田安房守の菩提寺で、秋田氏所替え以来、三春(福島県)の湊福寺を本寺とするが、寛文6年(1666)のころ、正本山妙心寺より本末となり、臨済宗妙心寺派となる。このことは、回状によって立証することができるという。これらは、明和3年(1766)11月の縁起書の写によって知ることができる。この写によれば、霊鷲山常在院と記録され、その時の住職は七世鉄州和尚となっている。しかしながら、過去帳は縁起書より古いという。「この寺には開創以来の過去帳があります。寛正年間のものと、寛永(1624)から昭和まで約330年間のものです。度々の火災の際にも、過去帳だけはかならず持ち出されたのでしょう。これもみな開山の人のおかげですが…」と、開山嶺南和尚をたたえるのは十八世の今田弘毅さん(54)。このほか、元禄4年(1691)の火災の詫び状や関所を通過する時に用いた「寺往来」、開山以下歴代住僧の「伝法(心印)」など貴重な資料が数多く保存されている。「伝法は現和尚から次の和尚へのいわば遺言状です。しかし、財産などについては一切ふれておらず、ただ心から心への遺言です。これもやはり開山の人が偉かったからでしょう」と住職はいう。本山の菅長、瑞松軒古仲鳳洲老大師が、かつてはこの寺の小僧であったということからも、当寺の堅さが伺われよう。現在の寺の建物は、昭和48年6月、大本山妙心寺興祖微妙大師六百年遠諱記念に増改築を完成したというだけに、どこも真新しい。本堂のみ寛文元年(1661)建立の面影をとどめている。この本堂の廊下は、住職が「県内でもここ一か寺だけ」と自慢される"うぐいす張り"であった。歩くたびにケキョ、ケキョときれいな音色を出す。また、本堂はじめ寺の用材はかつらとけやきだけという見事なものであった。五千坪に及ぶという広大な境内には、これまた昨年6月完成の山門、鐘楼、石庭がある。梵鐘は天和2年(1682)の鋳造。昭和19年太平洋戦争中応召されたが、昭和21年春、無事に帰山したという。本県における妙心寺派最古の道場といわれるだけに、檀家も相当数にのぼるのであろう。この日、石庭はまだ深い雪におおわれていた。』
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11.5
五輪塔。
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「南無七方佛」「忠魂犀霊」…
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鐘楼。上記にもありますが、昭和19年に太平洋戦争のため供出されましたが、戦後、大館駅の倉庫から見つかり、昭和21年春に戻ってきたそうです。梵鐘は天和2年鋳造。
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松。
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男鹿市指定の特別保護樹。
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