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秋田県鹿角市八幡平湯瀬古館。湯瀬館跡です。かつての湯瀬村で陸奥国鹿角郡のうち。鹿角由来記によりますと「湯瀬村、湯瀬中務領知、本名成田。後に湯瀬刑部領す。本名安部也。一戸より来り館有り」(南部叢書)とあります。鎌倉期以来の地頭成田氏に代わって一戸から新たに安部(阿部)氏が入ってきて支配を形成。江戸期は鹿角郡花輪通のうち。南部藩領。邦内郷村志によりますと、蔵入高75石余・給分采地6石余・馬52・戸数37(うち枝郷にあたる居熊井・石通・才田・大岩平分10)。
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「天保郷帳」では81石。「奥々風土記」には湯瀬駅は鹿角郡内五駅の1つであると記します。また湯瀬温泉について「泥の気ありて、常に濁れり。疥癬・諸悪瘡の類によし。往来の道の辺なれば、人多く集える処なり」とあります。明治9年宮麓村の一部となります。
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3.5
参道石段。
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御神木。
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5.5
石灯籠二対(明治40年4月吉日村中・昭和…丁度ミノムシで見えず)。
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6.2
6.4
6.8
手水石。
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こちらの建物はわからず。神輿庫かな。
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主祭神は天照大御神。創建不詳(江戸初期には創建)。享保16年社殿再建。現社殿は明治14年新築、昭和38年改築。例祭日は7月16日。特殊神事として神輿渡御・先祓舞があります。明治6年無格社、大神宮から天照皇御祖神社へ改称。明治45年1月に大日霊貴神社(鹿角市八幡平)に合祀。
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湯瀬神明社先祓舞(市指定無形民俗文化財・昭和61年1月16日)は、兄川(八幡平市)から始まった先祓舞が兄畑に伝わり、大正14年に湯瀬に伝授され、以後湯瀬神明社先祓舞として例祭日の7月15、16日に奉納されています。15日の宵宮には太鼓、笛と鉦の囃子を奏して境内で行われ、16日の本祭には神輿渡御の先祓いとして集落内を移動し路上で舞われます。演目は12あり、舞は先祓舞、後祓舞の他に穀物の作付から虫除け、収穫などを表現する他、無病息災や火伏せなどの祈りを込めて構成。後祓舞があるのは湯瀬だけです。舞い手の衣装は、袖に鈴を付けた肌着、襦袢、手甲で煌びやかに着飾って手には刀を持ちます。
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社殿。
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拝殿向拝神額。
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境内の石碑、石。一切読み取れず何かはわかりませんでした。
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境内案内板「湯瀬神明社先祓舞の由来」より…『湯瀬神明社は、鎌倉期の館である湯瀬館の一角にあり、江戸初期には創建されていたものといわれている。主祭神は天照大御神、境内社として薬師神社、山之神社、稲荷神社、駒形神社、八幡神社を祀る。例祭は毎年7月に行われ、渡御(神輿の行列)が湯瀬集落を巡行するときに先立って舞う祓いの舞とされる。これは、渡御の先導を担い、順路を祓い清めていく舞である。由来(起源)については、源氏の八幡太郎義家の東北侵攻に従った家来が兄川(現岩手県八幡平市)に居住し、京都伏見稲荷神社の分神を祀り、奉納舞(先祓い舞)を伝承したとされることから、兄川舞とも呼ばれる。鹿角市八幡平地域のいくつかの集落がこの舞を伝授、湯瀬神明社(湯瀬部落)には兄畑(隣村)から大正14年に伝えられ、以後、湯瀬神明社先祓舞として奉納される。舞人は、半襦袢・浴衣、たすき・手甲を身にまとい、太鼓・笛・手平鉦(かね)にあわせて刀や棒・扇子を持ち、それぞれの舞で取り換えながら演じる。舞は先祓い・後祓いのほか豊作を祈願し、穀物の作付けから虫よけ、収穫などを表現した十二の演目からなっている。神輿が神社に無事還幸し、境内にて納めの舞が奉納される。湯瀬神明社先祓舞保存会・湯瀬特別財産管理委員会』
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付近にはお墓がありましたが境内社の場所はわかりませんでした。丁度この案内板の後方の丘の上に何か見えていましたが、そこへ行く方法もわからず何かはわかりません。私が見逃したのか、拝殿内にあるのか、合祀されているのかはわかりません。
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