弘前市紙漉沢山越。以前はどうだったか忘れましたが、神社のかなり手前から結構な数の案内板があり、迷うことなく辿り着けます。
参道にある献桜紀念碑(明治38年10月10日建立上皇堂献櫻會、吉野櫻一千本、寄附金117円55銭、仝人名385名、発起人千葉健之助、成田市郎兵衛、安田雄吉)

社務所兼公民館が無くなっていました。


いこいの広場。

長慶天皇御辞世(昭和49年12月1日、書家川口桂舟、石工齋藤博明、基礎工白浜組)


『ゆきくれてかみすきいろにまよふみのけふをかきりのいのちなりけり 寛成 應永拾年六月』※諱は寛成
下部。拝詠反歌成田未五郎、臨書川口桂舟。
上皇宮入口。
社号標「上皇宮」(昭和41年11月3日、伊勢神宮崇敬会会長佐藤尚武謹書)。裏面碑文…『本社は古来上皇堂と稱し奉り。太上天皇寛成神靈を祀っていた併しその由緒を秘し特に江戸時代の初め藩命によって厳秘に附された明治維新神佛分離に当ってその由緒を知るものなく龍田神社と改めた明治十五年以来元本社別當常照院の文書が発表され明治二十一年御陵墓參考地となり本社を上皇宮と仮稱した昭和十九年長慶天皇の御陵は京都嵯峨に御治定になった。その頃より本社の崇敬者は社號を上皇宮と改めようとし昭和四十一年これを神社本庁に申請して今後永く上皇宮と稱し奉ることにした。昭和四十一年十一月三日 青森県文化財専門委員成田末五郎撰文 川口桂舟敬書 宮司森下貞雄 氏子総代三上美辰 田中榮 澤田藤吉 大場元英 石田健次郎 大場繁八 成萬石材刻』

『そのかみも斯くやとばかり提燈の光かよわき御陵の山』(奉納大正11年10月17日桂月)。裏面碑文…『碑陰 表刻の和歌は、大町桂月が大正11年10月17日相馬川の支流作沢川の屏風岩を探勝した後、夜遅く龍田神社現上皇宮)に参拝し、長慶天皇御陵墓参考地に詣でたおりの心情を詠んだ歌である。刻字は桂月翁の直筆書より採字転写拡大した。大町桂月の相馬来村を記念し、青森県文化観光立県宣言に協賛して本碑を建立する。平成11年10月17日上皇宮桂月文学碑建立協賛会 田中重 白浜重義 棟方昭三 三上靖男 棟方健治』

上皇宮…『伝承によると、この宮は大同2年(807)坂上田村麻呂が蝦夷征伐のおり、宝龍権現をまつったのがはじまりであるという。元中2年(1385)長慶天皇が身をよせておられた浪岡の館が南部信政に攻められ、天皇は傷を受けられ供奉の人々と共に新田宗興が守っていたここ紙漉館に入られました。11月10日の夜であった。天皇は応永10年(1403)6月1日、この地で崩御、おん年60歳であった。皇子盛徳親王は権現の跡地一万坪に新たに寺を建て、上皇廟堂と称して世々子孫が守護して来たものである。(石田家文書)古くは、宝龍権現宮・上皇堂・法龍宮・龍田神社の称があり、昭和40年、上皇宮と改称した。この山上には、かつての長慶天皇御陵墓参考地があり、相馬村には長慶天皇にまつわる多くの伝承・遺跡・古文書等が残っている。』

上皇宮文庫。
一之鳥居(平成4年7月13日建立、大工清野英治)。
社殿新築紀念碑(昭和34年8月完成、石段同38年9月竣功)。裏面碑文…『献納宮司森下元一郎、成田末五郎、大場幸太郎、成田長次郎、三上美辰、沢田藤吉、大場竹之助、大場敏卋、田沢豊吉、田中栄太郎、大場元英、田中栄、外氏子一同、』

参道石段。
参道周囲にはアジサイがたくさん植えられています。


白山大権現。基礎部分が変わった形をしていますが、ここはかつてベンチが並ぶ休憩所みたいな場所でした。

白山堂本殿。

白山堂…『白山堂は、別に皇后堂・白姫堂・白御堂・白山権現宮ともいわれている。長慶天皇の皇后、伊勢の宮菊理姫(菊子姫ともいう)の墳墓に建てられた御堂である。菊理姫は新田宗興の養女で、宗興が伊勢で討死以後、天皇と共に各地を転々とされ、陸奥国行岳(浪岡)から紙漉館に移られたのは、元中2年(1385)11月で、この地で盛徳皇子が誕生されたという。皇后のご逝去は応永23年(1416)11月18日で、墓標に榎を植え、白山権現をまつった。法名を「賢門院長雲大姉」と申し上げる。(「白山堂根本由縁起」による)』

大同2年、坂上田村麻呂が東征の折、宝龍権現を祀ったのが始まりとされる上皇宮。この場所は第98代長慶天皇御陵墓伝説の地とされています。
長慶天皇は在位16年で弟の後亀山天皇に譲り上皇となりましたが、足利氏の策謀に合い、紀伊の玉川宮、高野山金剛寺、伊勢の国、海路で常陸の国、白川、伊達を経て陸奥に逃れ、最後は修験山伏に身を隠し、応永10年に相馬地区紙漉沢御所で忠臣に見守られて崩御されたと伝えられています。
なお、由緒等については過去の記事も参照ください。
過去の記事
手水石。

石灯籠一対(社地復元記念、昭和26年7月25日)
石灯籠一対。こちらの方が古そうですが、草木に覆われていたのできちんと見ていません。
狛犬一対(大正13年11月27日紙漉沢村中)
社掌佐々木忠作、以下氏子総代田中才太郎、外3名、石工成田藤吉)
社殿。
拝殿神額。

さえずりの道。


末社。
石灯籠一対(天保6乙未年6月吉祥日)
稲荷宮。


末社。

石灯籠一対。
う~ん…馬頭観世音かな。


屋船二柱大神、大山祇大神、匠二柱大神(竣工祭昭和51年12月1日)


南無青面金剛帝釈尊(寛政9丁巳歳8月24日建立)

南無帝釈天(天保3壬辰年7月16日紙漉沢村中)

二十三夜塔(明治34年旧2月23日紙漉沢村中)

崩壊している不明の石塔。

上皇宮社殿裏の山道へ。

どんな道でもいいってわけではない。

少々草木が邪魔だったのは入口付近のみでした。


アジサイを楽しみながら登って行きます。



所々にこのような看板がありました。



平成24年に相馬地区環境美化委員会が旧長慶天皇御陵墓参考地周辺の環境を整備し、アジサイや桜を植えたそうです。




到着。着いた瞬間に旧長慶天皇御陵墓参考地の柵から、いきなりキツネが出てきて驚きました。写真は撮れず。
長慶天山頂。

長慶天皇御陵墓参考地「第98代長慶天皇」…『父、後村上天皇は、晩年、幕府側の足利義詮との間で公武合体を進めていたが、両者の相次ぐ死によって立ち消えになってしまう。そのため、長慶天皇もまた、各地を転戦した。その行跡には諸説あり、宮居も頻繁に移動していたため、つい最近まで、即位そのものが疑われていた天皇だった。が、近代になって詳しい研究がなされ、その存位が確認された。正式に第98代天皇として歴代に加えられたのは、帝没後600年を経た大正15年(1926)のことである。この地の石田家文書には元中2年(1385)長慶天皇が身を寄せておられた浪岡の館が、南部信政に攻められ天皇は傷を受けられ、供奉の人々と共に新田宗興が守っていたここ紙漉館に入れられたのが、11月10日の夜であった。天皇は応永10年(1403)6月1日、この地で崩御、御年60歳であった、と記してある。波乱に満ちた生涯を送った帝は、弟の煕成親王に譲位。以後数年間は院政をしていた。又、禅宗に帰依し、学問にも秀でていた。ちなみに、初代天皇は神武天皇で、現在の天皇は今上天皇・明仁で、第125代である。平成24年12月』

御陵墓参考地阯(弘前市和徳町石工成田由太郎)…『此ノ地往古来上皇堂ト稱シ中腹ニ祠堂ヲ営ミ舉村崇敬ノ所タリ偶々明治十五年石田久雄家ニ藏スル常照院文書ノ発見ニヨリ第九十八代長慶天皇ノ御陵ナリトシ有志相図リ起陵運動ヲ興ス爾来屡々調査ヲ重ネ明治二十一年十二月境内地ヲ設定シテ宮内省ヨリ御陵墓傳記参考地ノ指定ヲ受ケ次デ同四十一年傳説ヲ削ツテ御陵墓参考地トナル然ルニ昭和十九年二月十一日勅諚ヲ以テ長慶天皇御陵ヲ京都府嵯峨東陵ニ御治定トナルニ及テ御陵墓参考地ハ廃止セラル因テ昭和二十四年一月龍田神社境内地トシテ拂下ケヲ受ケ古ノ位置ニ社殿ヲ復元シ氏子一同此ノ霊地ヲ守ツテ祖先以来ノ崇敬ヲ捧ゲ希クハ後ニ来ル者永クコノ心ヲ傳ヘムコトヲ依テ是ニ此ノ碑ヲ建ツ 昭和二十九年二月十一日 参議院議員佐藤尚武題額 弘前圖書館長成田末五郎撰文 八十七翁髙山松堂揮毫』

木柱(平成25年5月吉日)には長慶天皇御陵墓参考地。陵墓とは皇室の各種の墳墓の総称であり、被葬者については宮内庁によって定められていますが、それとは別に宮内庁によって皇族の墳墓であるとされながら、被葬者が特定されていない陵墓を陵墓参考地というそうです。紙漉沢の長慶天皇御陵墓参考地は、現在では参考地ではなくなっているため旧長慶天皇御陵墓参考地。
四方を柵に囲われた空間です。
かつては周囲に桜も植えられていたそうですが今は寂しい雰囲気です。
眺望。
帰り道で見下ろした上皇宮。



コメント
コメント一覧 (3)
yuki
が
しました
小舘衷三さんの津軽ふるさと散歩にでている
岩木山そっくりの大石様を調べていましたら
こちらのサイトを見つけました
その映像がないようですけれど
こちらの神社にあるのではないですか?
yuki
が
しました