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北津軽郡鶴田町廻堰大沢。訪れたのは7月初旬です。
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廻堰大溜池(津軽富士見湖)・鶴の舞橋。
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鶴の舞橋の概要。
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ちょこっと里山探検ウォークmap。
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モンキーカフェの天ぷらそば&カレー。
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棟方屋のシェーク&ソフト。
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充電完了。
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ニックンとセイチャン。
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アジサイの小径。
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白衣観音霊場・自覚院白衣観音堂参道。
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『対話する君は時々やわらかき光の如く笑みを給わる』平成26年3月吉日伊藤惣一郎うたを花抄かく。
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『舞い終えた花が静かに地に眠る』平成27年3月吉日中野野泣子句を花抄かく。
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参道を振り返るの図。
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鳥居。
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鶴田津軽富士見湖鳥居建立勧進芳名碑(平成6年7月19日落成)。鳥居建立碑文…『日本国の今から1500年前にはまわりの国々では、「倭」(和)とよんでいた。漢(かんじ)が伝えられたのもその頃である。倭人とか倭国についてしらべると古代中国の国史に出てあるが、米を主食として生活している。その民族だけでも、24族を数える少数民族である。その人達は、皆鳥についての信仰をもっていて、一、古いのは、天帝の使者 二、〆縄のように邪気払う 三、儒教による礼法 右の三項が、からみあう縄のようになって、わが国で造作された。長寿の願心であることを形造にして奉納したものである。文:片山徳秀』
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津軽観音霊場第34番鶴田白衣観音霊場。津軽山自覚院白衣観音堂。
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扁額「白衣觀音堂」(昭和57年9月12日・良誉)
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津軽第34番霊場御詠歌(開山之作)「津軽山諸菩薩の母御奉安法の松風観るぞ尊し(つがるさんしょぼさつのははみまつりてのりのまつかぜみるぞとうとし)」。屏風山の起点であるこの場所に、諸菩薩の母と崇められている白衣観音さまを安置し、慈悲の教えを仰ぎ観ることができた。なんと尊いことよ。
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扁額「津軽山」(1980年秋彼岸、当山開山之署)
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「佛心者大慈悲是観世音釈迦彌陁薬師不動尊慈悲の相の呼名なりけり(ぶっしんとはだいじひこれなりかんぜおんしゃかみだやくしふどうそんじひのすがたのよびななりけり)信史作」。佛さまは無縁の慈しみを以って、悲しむもの苦しむものを救うとお誓いなさった。その御心は大慈悲に尽きる。観世音菩薩さまもお釈迦さまも阿弥陀さまもお薬師さまもお不動さまもみんな、慈悲の姿をあらわしておられる。
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「諸悪莫作衆善奉行」(諸の悪を作すこと莫れ衆の善を行い奉る(もろもろのあくをなすことなかれもろもろのぜんをおこないたてまつる))。佛教徒の根本の教えであり、佛・菩薩さまの共通の教えである。諸々の悪とは、ありとあらゆる暴力すべてだ。現在、殺したり盗んだり犯したりだましたりしなければ、生きていけない環境におかれる人がたくさん存在する。暴力をしなくてもいい、そして、暴力におびえなくてもいい、安心して暮らせる世の中にしよう。衆々の善の要件は、悪に無関心でないことである。一人一人の力は小さい。しかし、微力ではあっても無力ではない。
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扁額「善趣門」(1甲子葉月仲二日、正阿作)。「迷いと愚かさの闇を取り去り、佛の眼を開かせたい。そして、三途の悪道から、厄難のない善趣門(ぜんじゅもん)に導くのだ。」という菩薩の誓願の一節。地獄・餓鬼・畜生の悪趣に対して、人間・天上を「善趣門」という。殺し合いの地獄道、奪い合いの餓鬼道、弱肉強食の畜生道が、人間世界で繰り広げられ、極まっている。このまま争えば、安心して住める場所もなく、信頼できる人間関係もなく、自滅するしかない。佛の浄土は、この世の苦海とはかけ離れて、分け合い教え合い助け合いが自然と実現できる最もすぐれた善趣の門。無明の闇が深いがゆえに、無縁の慈悲を説く佛法が燦然と光を放つ。
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「やどかさぬひとのつらさをなさけにておぼろづきよのはなのしたふし」(歌蓮月)。大田垣蓮月の御作。宿を探して、一晩泊めていただけないかと尋ね歩いた。しかし、泊めてもらうことができず、夜、桜の木の下で野宿となった。横になり、ふと空を見れば、ぼんやり霞む月と花。そうか。宿を貸してくれなかったのは、私にこの絶景を見せるためだったのか。ありがたいことよ。※大田垣蓮月(1791年2月10日-1875年12月10日)津藩藤堂家の重役が京の料亭にて芸妓と恋仲になり、その間に生まれた女の子。寛政3年(1791)正月3日のこと。幼名、誠(のぶ)。国元に子を宿した妻がいる24歳の役人と遊女との間にできた子は厄介者とされた。生母の芸妓は10日ばかり乳を与えていたが、そのうちいなくなった。赤子は京都知恩院の寺侍に預けられることになる。蓮月、85年の生涯。菩薩尼、陰徳尼とも称された。「無私の日本人」の著者である磯田道史氏は「ほんとうに大きな人間というのは、世間的に偉くならずとも金を儲けずとも、ほんの少しでもいい、濁ったものを清らかなほうにかえる浄化の力を宿らせた人である。」と蓮月を讃えている。
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扁額「自覚院」
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「菩薩とはふみにじられて倒されてかどのとれたるのちにしるかを」。良誉之をつくる。観音菩薩は、ふみにじられても倒されてもにくしみやうらみにとらわれることなく、慈悲の心をつらぬきとおす。修行の末、慈愛に満ちたお顔。白衣観音さまは、苦悩するものや不安におびえるものに、ほほえみをたたえて語りかけておられる。
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三十三観音。
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松。
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聖戰從軍之碑(陸軍大將荒木貞夫書)
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碑銘…『鶴田町聖戰從軍者一同相謀り報恩感謝先憂後楽の至誠を結集して此の碑を建てます。蓋し明治以来當町出身千數百の良民良兵は累次の聖戦に從って勇戰奮斗赫々たる偉勲を秦し又平時においては各職域に流汗奨勵して郷土の發展に寄與せられましたがそれら幾多の武勲功業を顯彰し以って郷土人心の繁榮作興を圖らんとする趣旨であります。希くば戰友諸賢の魂魄此の碑に宿り永久不滅護國の榮光に映え明るく住みよい町つくりの灯台たらんことを祈念して止みません。昭和40年5月5日建設委員會委員長下山繁十郎』
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永沢翁顕彰碑。永沢得右衛門奉実(とものり)翁顕彰碑文…『永沢翁は天保12年(1841)4月、津軽藩士。深堀長左衛門の二男として生まれ、嘉永3年11月稽古館に入学、14才で永沢孫之丞の婿養子となる。明治元年(1868)10月、函館戦争に半隊長として出役するも廃藩となり同7年5月、水元村後中野に父子ともに定住し、寺小屋を開設する。同9年9月、木筒小学校設置とともに家塾を校舎に提供し、自ら教師として、爾来十数年子弟の教育に当たる。明治22年5月、水元村長に就任するも翌春辞職し、同35年3月、居を弘前に移し、同40年12月より「津軽史」の編さんに当たる。毛筆による全193冊、半紙判3万8千6百余枚に上る大著、大正7年12月完成、11年余の歳月が費されている。県文化財保護協会では、この「津軽史」の復刻を計画し、昭和48年3月からこれまで第20巻が刊行されているが、後学者の得がたい研究史料として高く評価されている。鶴田町親交会は結成40周年を迎えるに当たり、郷土ゆかりの史家の偉業顕彰碑を建立し、鶴田町の教育環境の充実を図り、人材育成の資とする。平成2年(1990年)9月1日鶴田町親交会長竹浪正静撰』
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明治百年記念碑(全国老人クラブ連合会々長・文部大臣、灘尾弘吉書)。施工昭和43年9月15日。
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趣意…『我が国は皇統連綿として悠久三千年の歴史を有し国民は平和と光明を理想とし知仁勇を象徴として金瓯無缼なる国体の精華を発揮したるは何れも皆我等祖先がよく大義名分を明らかにされた努力の賜であって我々は永久に之を記念し忘れてはならない事である。殊に明治百年は明治生れの老人大正生れの壮年昭和生れの青年と三代に亘り社会は夢と希望の実現に脈々と進展して来たのである。更に明治維新は学制の頒布ありて欧米の文化を消化し邑に不学の戸なく家に不学の民なきを期して国民道徳の根元を示し憲法を発布して官制新たに成り国家万年の基礎を堅め以て東洋の先進国となり世界に冠たる国威を発揚して日本武士道を海外に顕現されたこの偉大なる明治精神に対して我々は衷心から讃美せざるを得ません。故に之を年と共に新たにし又年々に新たならしめる報恩感謝の念は断じて失ってはならない。此の意味に於いて最も意義深い明治百年を迎えて鶴田町の産業経済文化温泉開発の歴史を偲び先人の偉業を讃えて銘記し新たなる反省と決意をもって将耒の発展に役立たせるにふさわしい事業であると思い津軽秀峰岩木山が朝な夕なに其の全容を鏡の如く湖面に映発する県下隋一を誇る観光地と資源に富みリンゴの香も髙き由緒ある風光秀麗眺望絶佳と称される津軽冨士見湖の展望地を卜し全町老連の協力参加のもとに茲にこの記念碑を建設した所以である。冀くは青雲の志を抱き未耒の希望に燃え立つ青少年の健全育成を期待し限りなき愛郷心をもって光輝ある祖国日本の興隆発展に益々貢献されんことを念願して止まない次第である。撰文渋谷文男』
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『ここは屏風山の起点です』
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屏風山の由来…『当地方は、岩木山から吹きおろす風と、西海岸から吹きつける潮風が強く青田も枯死する正に不毛の地でした。(1682年)天和2年津軽藩主4代信政公は、この岩木山颪(おろし)と潮風を防ぎ、新田開発を奨めるためにこの地点から現在の市浦村十三まで36kmに近傍所在の農民に松の植栽を命じました。この松が成林し、あたかも室内に屏風を立て廻したようであったところから屏風山の名が残ったと言われています。』
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津軽民舞踊尾原流元祖尾原家万次郎師碑…『師は、明治32年4月20日鶴田町尾原に、父棟方福太郎、母くり、三男、として誕生。12歳の春、農家の借子(奉公人)となって、労働しながら、津軽民謡手踊りの、研鑚をした。昭和40年11月16日、故郷で病死。行年67歳。大正末期から、亡くなるまで民謡踊のプロ、第一号者として、名声が高い。』
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コウノトリ飛来地。
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アジサイ。
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日本初の360度ループ滑り台。
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鶴の砦。
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フリーフォール滑り台。
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津軽富士見湖桜まつり元年碑…『百歩にして之を観れば白雲の空に起こり千歩にして之を望めば紅霞の峰にたなびく』
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ピンク・白・赤色のベコニア。
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