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南津軽郡田舎館村田舎舘中辻。
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田舎館一帯を治めていた千徳掃部政武公を偲んで、建物全体が城に見えるように設計された田舎館村役場。
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田舎館城は現在の田舎館村役場の東側一帯に築かれていました。田舎館城は本郭・外郭・新館・本郭東郭の四郭で構成されていましたが、現在その遺構は殆ど残されておらず、本郭の北西の隅のヤマコと呼ばれる場所くらいです。
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黒石・山形街道(平成14年12月)。
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天皇皇后両陛下行幸啓記念碑(平成26年9月25日御来村)。
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碑文…『天皇皇后両陛下が平成26年9月24日・25日に本県を行幸啓された折り、本村を御訪問され本庁舎三階から田んぼアートを御視察になりました。両陛下は、村長の説明を熱心にお受けになられ、村長・村議会議長と一緒に御会食をした際、田んぼアートに使う稲の種類について御質問されるなど、田んぼアートに甚く感動された御様子でした。沿道では約4千人が両陛下を奉送迎し、笑顔で手を振られ歓声に応えるお姿に、多くの村民が深い感銘を受けました。この光栄に浴したことを記念し、永く田舎館村の歴史に留めるため、平成27年1月1日に記念碑を建立しました。』
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田澤吉郎先生之像「清政人和」。田澤吉郎(1918年1月1日-2001年12月12日)は日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員。早稲田大学政治経済学部卒業。青森県南津軽郡田舎館村諏訪堂出身。津島文治元青森県知事の娘婿で1947年に29歳で青森県議会議員に初当選。1960年に「津軽のケネディ」を名乗って衆議院議員選挙に立候補して初当選。以来12回連続当選(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・亀岡高夫・仮谷忠男・細田吉蔵・小沢辰男・佐々木義武・谷垣専一・久保田円次・伊藤宗一郎・田川誠一・藤井勝志など)。自民党内では宏池会(池田勇人→前尾繁三郎→大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)に属し、衆議院議院運営委員長、国土庁長官、自民党国会対策委員長、農林水産大臣、防衛庁長官などを歴任。1992年に斎藤邦吉の死去に伴い、その後任として宮沢派(宏池会)会長代行を務めました。1996年の衆院選で比例代表東北ブロックに回りましたが当選不可能な下位に登載され落選し、これを機に政界を引退。
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碑文…『「清政人和」これは田澤吉郎先生の座右の銘であります。田澤吉郎先生は、大正7年1月1日、父周助氏と母なほさんの十一男四女の末っ子として、青森県南津軽郡田舎館村諏訪堂の旧家にお生まれになり、東奥義塾、早稲田大学政経学部政治学科に学ばれました。卒業と同時に帰郷され、田舎館村においては、りんご、稲作、乳牛など、農業に従事される傍ら、村づくり運動、青年団活動にも日夜没頭し活躍され、昭和18年10月、後の青森県知事である津島文治氏の長女、陽さんと結婚されました。先生は昭和22年、戦後第1回の県議会議員選挙において29歳の若さでトップ当選を果たされ、三期連続当選、32年からは県議会議長の重責も務められました。昭和35年には、42歳で衆議院議員にトップ当選され「津軽のケネディ」と尊称されました。衆議院議員連続12回当選を果たされ、この間、国務大臣国土庁長官、農林水産大臣、2度の防衛庁長官、2度の首相臨時代理等、国政の枢要で活躍されました。この大いなる功績を称え、平成7年8月田舎館村の名誉村民第1号に推奨され、平成9年には勲一等旭日大綬章が贈られました。また、先生は教育者としても高い見識と情熱を持っておられ、母校東奥義塾理事長、弘前学院理事長、学院長として将来に夢を託す青年・後輩の育成に力を注がれるとともに、郷土津軽をこよなく愛し、発展に尽力されました。平成13年12月12日、83歳で逝去されました。そして翌日、政府より正三位が贈られたのであります。先生の栄光とご功績を後世に伝えるべく顕彰の碑を建立するに際し、ここに碑文を刻むことといたします。平成18年12月10日吉澤秀香謹書』
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裏面。
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田んぼアート・・・じゃなくて田んぼ。ちなみに右奥に見える木の場所がヤマコ。
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大好きな黒石のおしゃべりハウス10へ。
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そばランチ(¥1,350)です。
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満足満足!
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