1
三戸郡五戸町上市川石上。
2
鳥居(昭和56年9月27日、沢田徳治)。
3
江戸期以降の上市川村についてです。三戸郡のうち。盛岡藩領。五戸通に属します。元和4年の知行目録(南部家文書)には「市川」として217石余とあり、同7年の「遣知行村付之高」(三翁昔語)には「五戸ノ内上市川」として254石余とあり、江戸初期は根城南部氏の給地でした。慶応3年「五戸通代官所惣高書上帳」によりますと、給人は櫛引蔵之丞・中市左司馬・楢山益人・江渡又吉・種市五八郎ほか10人。地内は狭隘ながらも沖積低地が広がっているため、江戸中期以降新田開発が進展しました。宝永2年市川北向で五戸町の商人市兵衛により御蔵新田の開発が行われ、これを機に元文4年には御側新田として藩営事業となり、寛保3年には市川新田奉行が設置されて開発が進められました。天保7年には五戸給人の江渡七郎治・種市五八郎・江渡七兵衛により、上市川谷地と石呑谷地の御蔵新田の開発が行われ、安政6年に検地実施。開発高は慶応3年の「五戸通御役高書上帳」に92石余とあります。このような新田開発の結果、慶応3年には760石余と増石。地内には神明宮があり明治期以後に村社となっています。地内北西寄りの谷間には池ノ堂沼(大泉坊沼)があります。古来から周辺の潅漑用水源に使用されていたとみられ、江戸期には八戸藩の売市年行事大泉坊の雨乞の祭祀場とされていました。宝永6年の「八戸藩日記」には「大泉坊先達て市川池之堂へ為雨乞被遣候」とあります。大泉坊の娘が雨乞のために沼に身を捧げたという伝説も伝わっています。なお、年代は不明ですが寺子屋が開設されていたと伝えられています。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て同4年青森県所属。
4
五戸川は市川とも別称されますが、その上流域に上市川村、下流域に八戸市市川町字橋向(かつての下市川村)があります。市川村は上市川村と下市川村の両村を含めた村名と解され、盛岡藩領内では上下2村に分かれていたものの幕府に対しては市川村一村として届け出ていたものと思われます。上市川と下市川の2か村として把握されたものはかなり早い時期からのようで「雑書」の慶安4年6月5日条に「下市河」とあります。また、同書慶安3年8月11日条には「浜市川」ともあり、太平洋岸に近い当村は浜市川とも通称されていたことがわかります。下市川村の橋向には白髭神社があり、御祭神は武内宿禰で俗に竜神といわれていました。堂ノ下にも同じく白髭神社があります。橋向と堂ノ下は奥入瀬川と五戸川に挟まれた下流域にあり、大雨や雪解けによる洪水は白髭水と呼ばれ、そこに龍神を祀って崇めました。白髭水が流域を襲うときは白髭の老爺が知らせるといい、奥入瀬川が流れる旧下田町地区間木では大洪水の前ぶれに白髭の老翁が川と共に流れてきて洪水の警告を告げたと云われます。白髭神社はこのように奥入瀬川と五戸川の氾濫・洪水、そして太平洋側からの津波に対する守護神的な役割を持っていたのではないかと推測できます。『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)には「五戸川の川口である下市川の白髭神社は竜神を祀り、対岸の橋向の白髭神社も同様である」と書かれています。
5
白い竜の置物など色々ありますが、正面には「南無妙法蓮華経」。由緒等は不明ですが、上記と関連するならば御祭神は武内宿禰、俗称竜神で、似たような由緒を持つのかも知れません。
6
棟札には「白髭大明神」、「南無妙法蓮華経 白髭大明神守護 南無釈迦牟尼佛 南無多宝如耒 如耒秘密 神通之力 二聖二天」と見えます。
7
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ