1
鳥海山大物忌神社吹浦口ノ宮』からの続きです。
2
社名が刻まれている石灯籠一対。
3
3.5
北畠顕信御祈願之所。詳しくは下記「パンフレットより一部抜粋」参照。
4
狛犬一対(明治34年10月吉日)
5
5.5
参道。
6
謹告「今般鳥海山大物忌神社本殿式年造宮による本殿遷座祭に際し畏くも天皇陛下より幣帛料御奉納せらる」「今般鳥海山大物忌神社本殿式年造宮による本殿遷座祭に際し神社本庁統理より幣帛料御奉納せらる」
7
石灯籠一対。
8
8.5
石段と石段脇の石碑。
9
9.5
石段脇の末社。
10
石段から見る三ノ鳥居。
11
石段から振り返って見る一ノ鳥居・二ノ鳥居。
12
上から参道石段。
13
こちらは女坂的な参道。
14
14.5
「石段150段余・参道200米余」とありました。
15
15.5
三ノ鳥居と御神木。
16
16.5
公式HP「御祭神」より…『神社の創祀は欽明天皇二十五年(千四百余年前)の御代と伝えられている。鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。本社は山頂に鎮座し、麓に「口の宮」と呼ばれる里宮が吹浦と蕨岡の二ケ所に鎮座する。大物忌神社は貞観四年(八六二)十一月官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。後に、出羽國一の宮となり、朝野の崇敬を集めた。特に歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。中世、「神仏混淆以来、鳥海山大権現として社僧の奉仕するところとなったが、明治三年神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、明治四年五月吹浦口の宮が国幣中社に列したが、同十三年七月に山頂本社を国弊中社改め、同十四年に吹浦・蔵岡の社殿を口の宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。昭和三十年に三社を総称して現社号となる。山頂の御本殿は伊勢野神宮と同じく二十年毎に建て替える式年造営の制となっている。現在のご本殿は平成九年に造営された。社伝に倉稲魂命、豊受姫神を奉祀するとある。鳥海山を頒き給ふ御神で農業をはじめ、衣食住の守護神である。』
17
石灯籠二対。
18
18.2
18.4
18.8
本間光丘君功績碑(明治33年6月1日)。
19
拝殿。
20
拝殿向拝。
21
拝殿内。
22
パンフレットより一部抜粋…『鳥海山は、その山容の秀麗さから「出羽富士」とも呼ばれる信仰の山で、古くより、人々はこの山そのものを「大物忌神」として崇めてきた。大物忌神の文献上の初出は、「続日本後記」の承和5年(838)5月11日条「奉授出羽国従五位勲五等大物忌神正五位下」という記述である。9世紀に、朝廷は大物忌神を国家に関わる重要な出来事を予言する神、そして、物忌みや祭祀を疎かにすると、噴火鳴動する恐るべき神として認識していた。延長5年(927)に、大物忌神は吹浦で並祀される「月山神」とともに「名神大」となり(延喜式神名帳)、その神階を「正二位」にまで高めた。現在、鳥海山大物忌神社が鳥海山祭祀の中心的存在となっている。この神社は、鳥海山山頂の「御本社」、そしてふたつの里宮「蕨岡口ノ宮」・「吹浦口ノ宮」の三社で構成される。吹浦口ノ宮は、古代から鳥海山の神「大物忌神」と月山の神「月山神」を主祭神としてきたことから、「両所宮」と呼ばれてきた。この「両所宮」には、中世の鳥海山信仰の様態を示す貴重なふたつの文書(いずれも国指定重要文化財)「鎌倉幕府奉行人連署奉書」(承久2年に鎌倉幕府執権北条義時の命に基づき、藤原氏と三善氏が連名で北目地頭新留守氏に送った書状で、庄内地方最古の文書)、「北畠顕信寄進状」(正平13年に、南朝の重臣北畠顕信が天下再興と奥羽の平安を祈願するために、由利郡小石郷乙友村を「出羽國一宮両所大菩薩」に寄進したことを示す文書)が伝わっていることで知られる。中世に入ると、修験者たちは鳥海山山麓周辺に定着して修験集落を形成した。吹浦と蕨岡はその代表的なもので、近世期以降、これらは鳥海山参りの拠点(登拝口)として機能するようになる。近世の吹浦には25坊・3社家が存在し、「両所宮神宮寺講堂」で鳥海山祭祀を行った。彼らが継承してきた修験道の年中行事は明治初期の神仏分離を契機に、「管粥神事」(1月5日)、「大物忌神社例大祭」(5月4・5日)、「月山神社例大祭(御浜出神事・玉酒神事)」(7月14・15日)として神式で執行されるようになり、今日に至っている。本境内の一ノ鳥居と二ノ鳥居を通り、参道を進むと右手に下拝殿がある。左に見える約百段の石段を登り、三ノ鳥居をくぐると拝殿が見え、最上段に「大物忌神社」と「月山神社」の両本殿が並び立っている。前身の本殿が宝永3年(1706)正月の火災で焼失し、宝永8年(1711)に庄内藩酒井家によって、現本殿が再建されたと伝わる。両社殿は、彫刻や脇障子の絵柄を除けば、全く同型、同大の一間社流造の建築である。』
23
23.5
wikipediaより一部抜粋…『景行天皇または欽明天皇時代の創建と伝えられるが、諸説があり、山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しているための勧請も絡んでいて、創建時期の特定は困難である。鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所があり、各登山口ごとに異なる伝承が伝わるうえに、登山口ごとに信徒が一定の勢力を構成して、互いに反目競争することも多かったため、それらの伝承が歪められることも多く、定説をみない状況である。吹浦の社については、元禄16年(1703)に芹沢貞運が記した「大物忌小物忌縁起」において、景行天皇のとき出羽国に神が現れ、欽明天皇25年(564)に飽海郡山上に鎮まり、大同元年(806)に吹浦村に遷座したとある記述があり、現在の社伝はこの吹浦の創建についての伝承を踏襲しているとされる。なお、大同元年は空海が唐から帰国した年にあたり、東北の多くの寺社で創建の年とされているという。「日本三代実録」貞観13年(871)5月16日の条にある出羽国司の報告から、飽海郡山上に大物忌神社があったことが確認できるが、大物忌神社の鎮座地は飽海郡にある山の上とあるのみで、上記の吹浦についての言及はない。創建に関する吹浦の伝承として、他に吹浦の信徒が蕨岡の勢力に対抗して宝永2年(1705)に寺社奉行所に提出した「乍恐口上書を以申上候事」という文書に、慈覚大師(円仁)が開基したとの記載がある。この記載は、蕨岡に伝わる縁起に対抗する意味合いが強かったと思われるが、現在も吹浦には慈覚大師直筆とされる天台智顗の図像と金胎両界曼荼羅図が保管されている。その他、吹浦の「大日本国大物忌大明神縁起」には、地元の他の伝承と融合したと思われる「卵生神話」が記されており、「天地が混沌とした中から両所大菩薩・月氏霊神・百済明神が現れ、大鳥の翼に乗って、天竺から百済を経て日本に渡来した。左翼にあった二つの卵から両所大菩薩が、右翼にあった一つの卵から丸子元祖が生まれ、鳥は北峰の池に沈んだ。景行天皇のとき、二神が出羽国に現れ、仲哀天皇のとき、三韓征伐で功績をたてたので、正一位を授かり勲一等を得た。用明天皇のとき、師安元年6月15日に、二神は飽海郡飛沢に鎮まった」という。なお、丸子氏は遊佐町丸子に住み、鳥海山信仰に大きな影響を与えた一族である可能性があるとされる。その後、貞観6年(864)、慈覚大師が鳥海山から五色の光が放たれているのに気づいて登ろうとすると、青鬼と赤鬼が妨害したので、火生三昧の法で対抗したところ、鬼は観念して、今後は鳩般恭王として大師に従い仏法を守護すると誓ったという。そして、円融院の代(969-984年)に朝廷から両所大菩薩と命名されたという。「卵生神話」は朝鮮の「三国遺事」や「三国史記」にも記載があり、外来の伝承が存在したことが推測されるが、鳥を先祖とするトーテミズム的な発想は、中世に成立した「鳥海山」の名称と関連していて、現在も地元に伝わる霊鳥伝説ともつながりを持っており、中世から近世にかけて成立した伝承である可能性が高いとされる。永正7年(1510)の「羽黒山年代記」では、鳥海山は飽海嶽と呼ばれていたとして、欽明天皇7年(546)に神が出現した後、貞観2年(860)に、慈覚大師が青鬼と赤鬼を退治した後、山の外観が龍に似ているとして、龍の頭部にみえる箇所(龍頭)に権現堂を建て、寺号を龍頭寺として、さらに、鳥の海に因んで山号を鳥海山としたとされており、卵生神話の記載はないものの、上記の「大日本国大物忌大明神縁」と共通する内容となっている。なお、現在の龍頭寺は大同2年(807)に慈照上人が開いたとされており、上述の空海の帰国の年に合わせられているほか、慈照上人の実在が確認されておらず、慈覚大師の錯誤である可能性もあるが、「羽黒山年代記」の貞観2年に開かれたとする記述とは年代が離れている。』
24
24.5
案内板「国登録有形文化財 鳥海山大物忌神社 吹浦口ノ宮本殿・摂社月山神社本殿」(平成24年2月23日登録)より…『本境内の一番奥、最高所に大物忌神を祀る大物忌神社本殿(東側)、月山神を祀る摂社月山神社本殿(西側)が南面して並び立っている。前身の本殿が宝永3年(1706)正月の火災で焼失し、宝永8年(1711)に庄内藩酒井家によって、現本殿が再建されたと伝わる。本殿後ろの斜面に石段が残っており、鳥海山詣りの道者たちは、この石段を通り、山に向かったと言われている。両社殿は、彫刻や脇障子の絵柄を除けば、全く同型、同大の一間社流造の建築である。もとは屋根が茅葺であったが、昭和38年(1963)の千四百年祭の際、銅板に葺き替えられた。昭和14年(1939)に壁板や土台を取り替え、屋根を葺き替えるなど修理され、併せて周囲の中門廻廊や玉垣が造り替えられている。続いて中門の下方には、戦時下の昭和18年(1943)に、台湾産檜材を用いて、桁行五間、梁間三間の拝殿を建て、登廊で繋がれた。これら昭和戦前期建造物の設計は、東京小石川区の小林設計事務所小林謙一が担当した。江戸中期の地方色のある両本殿と、近代の端正な設計の拝殿等が破綻なく融和しているのは、設計者が内務省神社局、宮内省内匠寮の設計者の系譜に連なり、神社建築の設計手法に通じていたことをうかがわせる。周囲のタブノキや杉の社叢とあいまって、かって「出羽國一宮両所宮」とも称され、明治以降「国幣中社」に格付けされた大神の社殿としての風格が感じられる。遊佐町教育委員会 』
25
25.5
拝殿横の白山姫神社石段。
26
白山姫神社。
27
神額には「白山大神社」とあります。
29
蟇股・木鼻。
28
更に末社が2社。どちらかが末社雷電神社。1つはわからず。
30
30.5
横には本殿。
31
31.5
奥が鳥海山大物忌神社吹浦ノ口本殿(東殿)、手前が摂社月山神社本殿(西殿)。
32
月山神社本殿の蟇股・脇障子。
33
34
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ