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山形県飽海郡遊佐町上蕨岡松ケ岡。大物忌神社蕨口ノ宮の南端。鳥海山龍頭寺。真言宗智山派(総本山智積院)。末寺2ヶ寺。御本尊薬師如来。荘内三十三観音第十九番札所、荘内平和百八観音霊場第三十三番札所。平成27年11月、本堂、開山堂、観音堂が国登録有形文化財に指定。
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国指定史跡鳥海山龍頭寺境内(平成28年10月3日追加指定)…『寺伝によれば、大同2年(807)慈照上人の開創にして十一面観音を本尊とし、松岳山観音寺光岩院と称した。「出羽国風土略記」には、明暦元年(1655)に、山号を鳥海山、寺名を龍頭寺と改称したと記されている。貞享元年(1684)以降、醍醐三宝院の直末の当山派修験として補任状を直接に交付し、鳥海山山頂で大物忌神を祀る鳥海山権現堂を運営した。明治の神仏分離令の後、大堂社(現在の蕨岡口の宮)の経堂は観音堂としてここ龍頭寺に移築され、仁王門の仁王像、下居堂の薬師如来坐像も龍頭寺へ移された。』
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国指定史跡鳥海山上寺案内図。
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中世から近世の鳥海山は修験の活躍する山でした。鳥海山には遊佐町吹浦、蕨岡、にかほ市小滝、院内、由利本荘市滝沢、矢島の各登山口があり、吹浦口の神宮寺は両所山神宮寺と称し、衆徒25坊を支配し、宝永年間に江戸護持院に属して天台宗から真言宗に改宗。蕨岡口には33坊あり、鳥海山龍頭寺が中心となりました。醍醐寺三宝院の末寺となりますが後に両宗兼学としました。慶応4年に神仏分離令が発せられると、吹浦では神宮寺以下すべての衆徒が環俗し大物忌神社に奉仕。明治4年に大物忌神社は国幣中社となり、山頂の鳥海山権現堂の祭祀権も獲得。一方、蕨岡では明治5年の修験道廃止令を受け、龍頭寺を除くすべての衆徒が神道に改宗。
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龍頭寺は蕨岡三十三坊を末寺として坊の当主に僧階を授与する本寺。寺伝によりますと平安時代前期の大同2年(807)慈照上人が開創とされています。往時は十一面観音を本尊として松岳山観音寺光岩院と称し、明暦元年に鳥海山本地仏薬師如来を祀り改称。近世は醍醐寺三宝院直末、現在は京都東山の総本山智積院末の真言宗寺院。かつては上寺三十三坊を統率し、松岳山観音堂衆徒三十三坊の別当学頭として鳥海山大物忌神社の祭祀を司りました。神仏分離令により蕨岡一山の衆徒は龍頭寺を残して帰俗し、蕨岡の鳥海修験の拠点としての性格は失われました。
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本堂。
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唐破風懸魚に「丸に酢漿」の紋。領主酒井公の信仰を受けて禄二百七十石を賜り「丸に酢漿」の紋を許されています。
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鬼瓦。
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本堂向拝。
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仁王尊。大物忌神社仁王門(隋神門)から移された仁王尊像の股くぐりをすると、無病息災や、はしかが軽くすむ等の利益があるとされています。
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阿形。
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吽形。
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龍頭寺の仁王尊…『「町文」木製(寄木造)年代不詳(江戸中期)各尊身丈330像幅57センチ。龍頭寺は、今から1200年前に創建された松岳山観音寺が始まりで、その本尊が十一面観音だったことから、上寺(うわでら)集落には三十三観音の信仰に起因して、33の宿坊が作られたといわれ、その本寺であった龍頭寺には、本堂玄関に木彫で高さ3.3mの阿吽一対の仁王尊が立っており、昔から子供の麻疹(はしか)が軽く済むようにと、阿形は左回りに吽形は右回りに、それぞれ前方から中央に向かい、股くぐりを3回して子供の成長を願う風習がある。奈良時代の初めに、中国の文化と共に仏教を取り入れた日本人は、それまでの神の信仰を守るため、神仏習合という考えを打ち立てて、仏と神を分け隔てなく信仰したことから、鳥海山は薬師如来が大物忌神として仮の姿になって現れ、人々を救うのだとしたため、鳥海山およびその神を祀る大物忌神社は、別当職を務める龍頭寺が長い間にわたり、管理と運営に当たっていたが、明治初年の寺と神社を分けなさいとした新政府の神仏分離の発令が、地方を中心にいつしか寺を無くして神社を建てろとする、廃仏毀釈の考えに内容が変わってしまう。そのため、神社と繋がりを持つ多くの寺院は、廃寺や規模の縮小を余儀なくされ、上寺の全ての家は集落を守るために、強制的に神道に宗旨を変え龍頭寺から離れたが、上寺集落の人々は千年以上の長い歴史を持つ龍頭寺を無くす訳にいかないと考え、幕末に龍頭寺の本堂として再建した堂宇の学頭坊敷地のみを龍頭寺の境内とし、それまで龍頭寺が管理していた土地や建物は大物忌神社に移管した。こうした廃仏毀釈の複雑な様子について逸話では、「明治という新しい時代になり、寺と神社を分けなさいという話を聞いた上寺の仁王さまたちは、自分たちの居場所がついに無くなったことに気づき、或る夜ついに今まで自分たちが居た仁王門から抜け出て、これからの自分たちの居場所を探すため、幾日も幾日も上寺の部落中を彷徨ったそうだ。そうした或る夜、仁王さまたちはとうとう疲れ果ててしまい、道端に腰を下ろしウタタ寝をしてしまったが、しばらくすると朝日が昇り急に辺りが明るくなったのに気付き、驚いた仁王さまたちは我に返り立ち上がって見回すと、そこは良く見慣れた龍頭寺の本堂玄関だったので、それからは向かって右側に阿形と左側に吽形の仁王さま二人が、ずっとここで仏さまとお寺を守っているのだ」という。つまり龍頭寺の仁王尊は、初めから寺の本堂玄関に祀られていた訳でなく、神仏分離により明治6年(1873)に仁王門(現随神門)より移された尊像で、その際に天衣などの装飾類は失われてしまったが、一般に金剛力士とか仁王様と呼ばれるように、筋骨隆々な姿をし半裸で身構える憤怒武者風の型像が多いが、龍頭寺の仁王尊は細身にして腰をひねらず直立し、どことなく笑みを浮かべるユーモラスな姿をしており、独特な雰囲気を持つ数少ない尊像の一つである。また仁王尊は、金剛杵を持つことから執金剛神とも称され、仏法や諸尊を守護する夜叉神で、諸経典には釈尊の周囲に常に侍して金剛杵をとると説かれ、元来は単尊で釈尊の警護に当ったが、やがて仏尊および聖域を守護するため阿吽一対に分化し、始まりと終わりの時間を超越して表しており、さらに仁王尊の多くが朱色なのは、中国では古来より朱や赤などの色には、魔除けや病魔を払う力があるとされ、仏教伝来と共に日本でもその風習が受け入れられ、この色が諸々な災いを避ける意味合いを込め神社仏閣で多く用いられ、龍頭寺の仁王尊も全身を朱色に塗彩してある。』
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仁王立像吽形像首の墨書…『寛政四歳 壬子十月吉日 庄内酒田松山 松山 佛師清治郎 酒田 檜物町 塗師 治兵衛倅幸助 塗師 三良兵衛内 多助』
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石灯籠一対。
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「興教大師八百五十年御遠忌記念結縁潅頂勤修」
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庄内札所三十三霊場(庄内三十三観音霊場)十九番「鳥海山龍頭寺」十一面観世音…『開山:慈照上人。堂宇:本堂・庫裡、開山堂、観音堂。本尊:薬師如来。寺宝:涅槃図、三千佛曼荼羅、木造阿弥陀如来坐像、黄檗版一切経。本寺:京都智積院。末寺:ニヶ寺。この寺は遊佐町蕨岡の上寺にある。ここは鳥海山蕨岡口に当たり、すぐ近くには守護神たる大物忌神社がある。また下には桜で名高い鳥海公園もその近くにある。飽海平野や煙突が林立する酒田港を一望におさめることが出来る観光地としても、眺望と自然美とに恵まれているので年中参拝者で賑わっている。當寺は醍醐天皇の御代に三宝準宮の末寺として新義直公(しんぎなおきみ)という人が松岳山観音寺として開基せられたものと言い傳えられている。本尊薬師如来は以前鳥海山の本地仏だったといわれ、出羽一の宮大権現とよぼれている。竜頭寺は最上時代一山三十三坊の学頭で、領主最上氏の尊信を受け、二十年ごとの造営にあたっては、杉松材二十石ないし三十石の寄進を受けた。享保(1716~1735)のころ中興深開法印に黄壁版一切経をそなえつけるほか、訪れる学僧のため四十俵あがりの田地を用意するなど教学振興につくした。この法印の経歴ははっきりしないが、大石良雄の二男吉千代だという説もある。明治維新の神仏分離のさい、古文書、刃剣をはじめ由緒あるものは大物忌神社に移された。当寺観音は作者は不明であるが銅製の立派な御尊像である。また当寺は常法談林学頭寺として昔は栄えた寺である。』
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石仏。
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面白い造り。
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皇軍戦死志靈塔。
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庄内札所開創二百八十年記念開帳、五輪塔。
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敷地中央東寄りに西面して本堂、本堂北東側に西面して開山堂、南東に座敷棟があり、本堂とそれぞれ廊下で連結されています。敷地内北西に観音堂が南面して建立。経蔵には中興開山深海法印が宇治の黄檗山から勧請したと伝える黄檗版の一切経を祀っています。
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観音堂。
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蟇股・木鼻。
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観音堂内。
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鳥海山女人参詣図絵馬。
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荘内札所卅三観世音菩薩像。
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十一面観音。
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平安時代のご本尊3.6mの観音さまは御簾の奥です。簾の裾から礼拝下さい。
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十一面観音。
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不動明王。
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毘沙門天。
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新聞記事が貼ってありました。1つは平成28年6月19日の記事で「国史跡・鳥海山の範囲拡大~遊佐町の龍頭寺境内など追加指定」、もう1つは「国の登録有形文化財へ庄内から9件答申~善寶寺(鶴岡)の6件、龍頭寺(遊佐)の3件」。内容は省略します。
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鳥海山龍頭寺の略史…『龍頭寺という名称に関し、羽黒山年代記に「平安前期の貞観2年(860)に円仁(慈覚大師)が、龍の形をした飽海嶽(鳥海山・2236m)に登り、仙翁と龍翁という2匹の鬼を封じ、その山の頭にあたる場所に権現堂を建てたことより寺号を龍頭寺、また権現様の御手洗池を意味することから山号を鳥海山とした」とあるが、寺伝では平安前期の大同2年(807)に、慈照上人が松ヶ丘の麓(現在の蕨岡口ノ宮)に、十一面観音を本尊とする松岳山観音寺光岩院として開創したという。それは、出羽国鳥海山大物忌神社の順峰集落の表口塔中で、蕨岡修験衆徒三十三坊(松岳山観音堂衆徒)の本寺として、大寺院組織における長官職と神社を守護する別当、および衆徒を教育する学頭を努め、大物忌神社をはじめ鳥海山一山を統轄し、江戸初期の明暦元年(1655)以降は、鳥海山本地佛の薬師如来を本尊とし鳥海山龍頭寺と改称、講論法談研学道場の常法談林に任ぜられた。すなわち仏教を受け入れた我が国は、日本固有の神の信仰と仏教との融合を考え、平安時代頃より本地垂迹の思想を説き、神は本地である仏が衆生救済のため、仮の姿でこの世に現れたと考えたことから、汚れを祓う鳥海山大物忌神は本地を薬師如来とし、その衆徒集落の多くは、南北朝時代前後の14世紀頃には既に修験道との関わりを深く持ち、鳥海山の修験衆徒は江戸初頭までは羽黒修験に属していた。しかし江戸初期の慶長18年(1613)に幕府が修験法度を出し、真言宗三宝院の当山派と天台宗聖護院の本山派に修験の支配権を与えると、蕨口衆徒は中央との関係を保持するため明暦元年(1655)以降は真言系となり、貞享元年(1684)に醍醐三宝院の直末に列せられると、鳥海山大物忌神社は龍頭寺を筆頭とする蕨岡衆徒の努力により、江戸中期の元文元年に正一位の位階に昇格した。これら鳥海山修験集落の、蕨岡・吹浦・小滝・院内・滝ノ沢・矢島のうち、山上の支配権を有す蕨岡衆徒は、出羽国主の最上家および庄内藩主の酒井家より祈願寺として禄を賜り、その信仰を厚く受け徐々に大きな勢力を持ち、他の登拝口修験集落との間で信者獲得や峰争いを度々起こし、特に江戸中期の元禄年間の逆峰矢島との山上権の境界争いは有名である。しかし、明治新政府が祭政一致を目標とする神道国教化政策の神仏分離令を出すと神仏習合は終局を迎え、龍頭寺以外の上蕨岡集落の住民は、明治3年に全て強制的に神道へ改宗、さらに明治5年の修験道廃止令により寺運は俄に衰退し、寺領をはじめ寺宝や古記録などの多くを失い、このため蕨岡と吹浦の間で本社と勧請社および山上権の争いが再び起き、明治13年に蕨岡と吹浦をそれぞれ口ノ宮(里宮)とし、山上社を本社とする我が国唯一の三社連帯社となり、明治33年に京都智積院が真言宗智山派を公称すると、龍頭寺は総本山智積院の末寺として現在に至っている。なお龍頭寺は、古くは現在の大物忌神社蕨岡口ノ宮が境内だったとされ、神仏習合時代には仏と神を一緒に祀る堂宇がその境内に有ったが、度重なる火災に遭ったことから江戸時代の初頭に、学頭坊敷地の現在地に龍頭寺として堂宇を建立したが、神仏分離後は明治6年に仁王像を仁王門(現在の口ノ宮随神門)から寺の正面玄関へ移し、さらに明治8年に観音堂を移築すると次第に諸堂が整備され、平成27年に本堂と開山堂および観音堂が国登録有形文化財、また平成28年には境内全域が国指定史跡鳥海山に追加指定された。【庄内三十三観音・荘内平和観音・庄内十三佛・出羽路十二薬師・出羽十三佛・各霊場】』
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鳥海山女人参詣図絵馬…『木製 年代不詳(明治初期頃)額縦89額横181額厚3センチ。観音堂にある大きな女人参詣図絵馬には、先達と思われる丁髷姿の男性1人と、笈摺に脚絆という参拝姿の女性一行の計15名が、滝や五重塔を配した熊野参詣図と類似する構図であるが、鳥海山を表したと思える霊山に登拝参詣する様子を描いており、和やかに談笑する一行の女性一人が洋傘を差すなど、明治新政府による古くからの霊山における女人禁制の解除と、文明開化という新しい風の流れを喜ぶ心情が窺え、信仰登山の新たな状況を物語る大変貴重な奉納絵馬である。この絵馬には、表面の左下に旧鹿野沢村の10名と旧平津新田村の2名、そして旧大渕村の3名という15名の奉納者名が書かれており、その多くは当時の龍頭寺檀家だが、檀家以外の者も数名いることから、この絵馬は地域住民の女性有志による、鳥海山登山参詣達成の記念奉納だろうと思われる。また奉納者名に旧〇〇村とあることから、鹿野沢・平津新田・大渕の各村は明治9年(1876)に蕨岡村に統合されて、鹿野沢村は鹿野沢に平津新田村は小原田、また大渕村は大蕨岡となったことから、この絵馬は明治9年以降に奉納されたと推察できる。さらに、氏名を〇〇母とか〇〇妻と記しているが、明治5年(1872)3月27日に新政府が霊山への女人禁制を廃止する令を出したが、まだ一般的には女性の名を記すことに抵抗感があったため、このような書き方で奉納したのだろうと思える。つまり我が国では、修験道が確立される中世以降に、多くの霊山で女性の登拝を禁じたが、その理由として挙げられる内容には、民間信仰や風習が複雑に絡んでいるため、詳細の解明がされていないが、それらに共通する背景として次の事が考えられる。「・山の神様は女神であり美しい女性が来ることを嫌った・仏教の戒律を基に修行の妨げになる女性の登山を禁じた・修験道の修行が大変危険な場所で行われた・滝行などは裸で行う場合が多かった」また我が国の歴史上で、古代といわれる時代までの山岳信仰では、山は神そのものであって多くの霊が集まる所とされ、霊山は麓より拝むものとしたが、中世以降になると修験道の確立と共に、徐々に神としての霊山は登山参拝する聖地へと変わったが、それらの霊山に登山参拝することに関して、昔から厳しい自然と向き合う信仰心を持ち、地域の講中を代表する重い責任感を持って、一生に一回の思いで山に登るものとされたため、それには次に示すような古来からのしきたりも存在していた。「・登る前の7日毎に精進潔斎を重ねる・宿坊を出るときは松明を持って提灯を下げる・初めて登山参拝する者は滝行をして身を清める・登る際には草鞋3足を用意し、1足は払川で下界の土を神域に入れぬよう履き替え、もう1足は神の住む土を下界に降ろさないため払川で履き替える」これら東北地方での、霊山への登山参詣の古いしきたりに、多くの共通点を見ることが出来る。』
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龍頭寺の十一面観音…『「町文」十一面観音・像丈360 不動明王・像丈91 毘沙門天・像丈97センチ。龍頭寺は観音堂に十一面観音を祀るが、仏教伝来より多くの人に信仰される観音菩薩は、人々を救うため33身に変化するとされ、中でも十一面観音はあらゆる方向に顔を向け、苦しむ衆生を見落とすことなく救う誓願を表しており、観音菩薩が多くの顔を持つことは、極めて素直に民衆に受け入れられ、平安時代頃から観音信仰の主流を占めていた。観音堂に入ると、まず中央の京風で美しい総丈1.8mの前立ち十一面観音に迎えられるが、この像は光背鏡の裏に江戸時代の鏡師である上嶋和泉守の記銘があり、及瑞住職が明治15年に庄内三十三観音霊場の19番札所更新記念に購入した尊像で、その奥に松岳山観音寺時代の本尊で、像丈3.6mの松一本で鉈彫様式の十一面観音立像が、不動明王と毘沙門天を両脇に従え祀られており、十一面観音を本地佛とした熊野神社との関連や上寺三十三坊の創設など、開創当時の観音信仰を想わせる尊像である。この三尊形式について「山門堂舎記」に、平安時代に唐より帰る際に海難に遭った日本天台宗の僧円仁(慈覚大師)は、どうしても大陸で学んだ密教を日本に持ち帰らねばと、一心に聖観音の力を念じたところ、毘沙門天が現れて難を逃れ無事に帰国出来たことから、比叡山横川の首楞厳院に聖観音と毘沙門天を安置し、後に不動明王を加え祀ったとある。つまり、千手観音とその信者を護る神々の力を結集した、神聖なる集団の二十八部衆など、観音菩薩を守る者には幾つかあるが、龍頭寺の十一面観音は眷属として共に松一本で鉈彫の、宇宙の根本仏である大日如来の化身で、その教えを司る教令輪身としての不動明王を向かって右側に、また左側には四天王の一人で多聞天とも呼ばれ、北方を守る武運神で財宝神でもある毘沙門天を祀るが、その力は何れも絶大で無双の力を放つ最強の守護者の脇仏には、そうした仏達への大きな期待が込められていたと思えるが、観音菩薩におけるこの三尊様式はいずれの経典にも記されていない。しかし、西国観音結願霊場の谷汲山華厳寺の三尊仏など、十一面観音および不動明王と毘沙門天の三尊様式の造像例は意外に多く、いずれも不動明王と毘沙門天が、観音菩薩の眷属として初めから造像されたかは不明だが、この両尊は観音菩薩の脇侍に留まらず、阿弥陀三尊の眷属としても祀られている。そのうえで円仁(慈覚大師)は、平安時代前期の延暦13年(794)に下野国で生まれ9歳で仏門に入り、15歳で比叡山に登り受戒するや承和2年(835)に入唐留学し、天台教学を学び承和14年(847)に帰朝して天台密教の教学を確立すると、斎衡元年(854)に天台座主第3世となるのだが、龍頭寺の住職としてこれらより考察するに、龍頭寺が松岳山観音寺として大同2年に開創された当初より、この三尊様式で十一面観音を祀ったとする説にはやや疑問がある。』
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