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社殿は南面して建立。かつては大堂とも称されました。
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鳥海山大物忌神社蕨岡ロノ宮本殿(国登録有形文化財、平成19年10月2日登録)…『本殿は、桁行三間、梁間六間。切妻造銅板葺屋根で、正面に一間向拝を付ける。桁行総長は13.8m、梁間の実長も16.9mにも及び、床高も2.3mあまりと高く、非常に規模の大きい建物である。内部は外陣と内陣に分かれ、背面側の中央間に営殿を造る。絵様や装飾的な要素は少ないが、木割が大きく、直線的な意匠でまとめた、豪壮な社殿である。様式的には、伊勢神宮正殿を根源とする神明造の系譜に連なる。本殿は、明治29年(1896)に造営されたもので、高さ3.7m、幅55cm、厚さ8.5cmもの巨大な棟礼が残されている。棟梁は、地元上寺の宮大工小野重吉である。棟札には当時の宮司名のほか、大旦那であった旧庄内藩の酒井家当主や酒田の豪商本間光輝の名前などが見える。戦後の昭和28年(1953)に、参拝の利便性向上のために、東の山手から現在地に移築されている。遊佐町教育委員会』
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棟札。
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本殿向拝。
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6.5
向拝扁額(熾仁親王書)。
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本殿内。
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扁額。
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中央の扁額「正一位大物忌神社鳥海山出羽國一宮」。
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揮毫(伝)宝鏡寺門跡第二十二世本覚院。
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扁額「鳥海山大権現」。
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揮毫従四位下左少将忠器(庄内藩第八代藩主酒井忠器公)。
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扁額「光満六合」。明治29年に火災によって焼失した社殿の再建時、扁額の揮毫を勝海舟に依頼。その交渉に当たった遊佐町野沢出身の梅津曾五郎の奉納。意味は光が六合(天地・東西南北=世界)に満つ(※日本書紀「日神之光、滿於六合。故、諸神大喜」)。木彫額は遊佐町北目出身の菅原大三郎によるもの。
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絵馬。
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その他諸々。
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16.2
16.4
16.6
16.8
2014年公開の映画『るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編』では、蕨岡口ノ宮の境内でロケ撮影が行われており、緋村剣心と沢下条張が決戦を行う京都の神社として撮影が行われています。
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wikipediaより一部抜粋…『景行天皇または欽明天皇時代の創建と伝えられるが、諸説があり、山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しているための勧請も絡んでいて、創建時期の特定は困難である。鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所があり、各登山口ごとに異なる伝承が伝わるうえに、登山口ごとに信徒が一定の勢力を構成して、互いに反目競争することも多かったため、それらの伝承が歪められることも多く、定説をみない状況である。吹浦とは別の縁起が伝わる蕨岡の「鳥海山記并序」(宝永6年、1709年)では、役行者が開山したとする前提で、行者がはじめて山に登ったとき、「鳥の海」をみたことから「鳥海山」と名づけられたとしている。なお、社の創建のとき、山に名称はなく、現在の「鳥海山」という山名ができた由来には諸説あり、山上にあって霊鳥が生息すると言い伝えられる「鳥の海」によるとする説が有力である。蕨岡に伝わる他の縁起では、「鳥海山縁起和讃」(嘉永5年、1852年)に、天武天皇のとき、山の神の命により、役行者が山中に出没する鬼を退治し、開山したと記されている。この縁起は、吹浦に伝わる慈覚大師(円仁)の創建とする説よりも年代を古い説を唱え、対抗しようという意図がみられるとされる。関連して、蕨岡の東之院興源は「出羽國一宮鳥海山略縁起」(安政4年、1857年)の中で、役行者が山中に神の眷属である三十六王子を祀り山の守護神としたという記載があり、実際に、蕨岡では山道に三十六王子を祀っていたという。』
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本堂前狛犬一対。
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19.2
19.4
19.8
紀年銘は大正15年9月吉日。
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20.5
「金五百圓・杉弐百拾七本 酒田港 本間光輝 鳥海山口ノ宮建築寄附 明治廿九年五月」
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石殿。
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鳥海時雨郎君彰功碑(辱知杉田定一書、共榮社員建之、石工高橋法壽)。
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「門長二躰 酒田 堀助右エ門 金百圓 小山太吉 大額面 高橋喜藏」
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末社。
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木丈葉神社。
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陶器製御狐一対と鏡。
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さざれ石。
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御賽銭がありました。
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『この石は国歌「君が代」に「さざれ石の巌となりて」と詠まれている「さざれ石」です。石は石灰質角礫岩といいます。昭和36年岐阜県春日町で発見され、後に岐阜県の天然記念物に指定された石を、矢部駿河守定謙終焉の地より奉納いたします。三重県桑名歴史の案内人初代会長加藤勝巳 平成19年10月吉祥』
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摂社の風神社と末社の荘照居成神社。
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摂社風神社と末社荘照居成神社は遊佐町指定有形文化財(平成16年12月22日指定)。
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案内板がありましたがほぼ読み取れませんでした。御祭神は矢部駿河守定謙、例祭日7月16日。
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鳥居。
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社殿。
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天保年間の三方領地替騒動に関わり非業の死を遂げた江戸町奉行矢部駿河守を御祭神として祀ります。天保11年の三方領地替騒動(庄内藩が越後長岡へ、越後長岡藩が川越へ、川越藩が庄内に)において庄内藩の転封阻止に尽力し、後に伊勢桑名藩松平家に幽閉され非業の死を遂げた時の江戸町奉行矢部駿河守定謙。弘化3年に地区民の発願により建立。毎年10月2日荘照居成祭が行われるそうです。※墓所は東京都江東区平野の日蓮宗法苑山浄心寺(享年54。戒名晴雲山院殿秋月日高定謙大居士)
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扁額は「摂社風神社・末社稲荷神社」
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彫刻が素晴らしいです。
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38.1
38.2
38.3
38.4
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末社火鎮神社。
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39.5
末社松ヶ岡神社。
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40.5
末社白山神社。
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41.5
木丈葉神社以外の摂末社は本殿向かって右手に並んでおります。
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境内案内図によりますと三ノ鳥居の先に石段があります。
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約400段ある石段の先、松岳山中腹には峯中修行の記念碑である「峯中碑伝」や海抜150m程の低地に奇跡的に残されたブナ自然林があります。
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ってことで、石段を上ります。
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結構急な石段です。
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先が見えませんね。
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石段を振り返るの図。
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上まで来ました。
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鳥居の跡かな。
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50.5
峯中碑伝前です。
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峯中碑伝。
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峯中碑伝(文化2(1805)巳年4月吉辰)…『「碑伝」とは、山伏の峯入り修行の記念碑で、行者名、峯入年月日、峯入度数、祈願仏名などを刻し、峯中堂の前などに立てられた。本石碑は、高さが128cm、幅112cmほどの山形の自然石に、「大宿先達・南性院」(杉沢の別当坊)や「大先達・松尾坊」など行者名が刻されている。蕨岡の修験の家に生まれた者は、まず三歳になると懐児(だきちご)と称して、法会にはじめて参加して、修験の家の跡継ぎとして一山衆徒の承認を得る。その後、童哉礼(どうやり)などの稚児舞を舞う。十六歳になると髪を剃り、得度して、卿名を名乗り、初峯入の新客を務める。その後、具舎・太平楽などの延年を舞い、二十五、六歳で田楽役を務める慣わしであった。これらの役が済むと三十三歳頃となり、鳥海山道者を案内する先達の位である先途の修行に入ることが許される。先途と呼ばれる位を得るためには、「胎内修行」と言われる十ヶ月にも及ぶ修行を行わなければならなかった。このように蕨岡修験においては、芸能と修行は、一体のものであって、年齢に応じた通過儀礼が組込まれ、入峯を重ねることによって、位階が昇進していった。山中で厳しい修行を行う修験道において、最も尊崇されるのは、不動明王である。中央に大きく、本尊として不動明王の種子(カンマン)が刻されている。両脇には「八大金剛童子」、「七大胎蔵童子」と刻まれる。これらの童子は、不動明王に随侍して、修行者を守護するともいわれた。遊佐町教育委員会』
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53.5
もう一つの石碑。中央に梵字が刻まれています。板碑でしょうか。梵字の下には「一念彌陀仏即滅無量罪現受無比楽後生清浄土」。紀年銘は正徳4甲午年7月15日。峯中碑伝より古いものです。
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峯中碑伝から更に道が続いております。
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少し進むと…
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再び石段があります。
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境内案内図によりますとこの先に拝殿跡と蔵王権現碑があるようです。
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礎石でしょうか。
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いくつかありました。
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何も無さそうな雰囲気に感じましたが、しばらく歩いて行くと…
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石碑が見えてきました。
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つまりこの辺が拝殿跡。
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三頭木。
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石碑。向って右が蔵王権現碑(蔵王大権現)。
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紀年銘は天元三年四月日。天元って何時代でしたっけ!?ってことで調べたら…天元三年(庚辰)は980年!古っ!!後刻!?
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となりの石碑には『鳥海山大物忌神社 蕨岡口ノ宮旧社殿趾地 第十一代宮司前田康三謹書』とありました。
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裏面碑文…『昭和二十八年十一月建之 奉賛會 氏子會』
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ってことで戻ります。以上、鳥海山大物忌神社蕨岡口之宮でした。
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