弘前市独狐石田。私の地図には鳥居と「愛宕山」とのみ記されています。


独狐は戦国期に見える地名。鼻輪郡のうち。天文年間の津軽郡中名字に鼻輪郡のうちとして独狐と見えます。笹森館内の墓地に正和5年銘の板碑あり。江戸期以降は独狐村の村名。津軽郡鼻和庄のうち。弘前藩領。寛永17年の津軽百助宛の3代藩主津軽信義黒印知行宛行状に当村名が見えます。享保11年の検地帳や同12年の平山日記によりますと、同11~12年頃に郷村改によって当村から薬師堂村が分村したとされますが、薬師堂村は既にそれ以前の正保高帳や元禄郷帳に当村とは別に記載。集落は西浜街道沿いに発達。また、永録日記・平山日記によりますと、正保4年石渡村から当村まで新道が開かれたとしますが、これは西浜街道の整備を指すものと思われます。貞享4年検地水帳によりますと、小字に「嶋田・笹元・独狐森・石田・松ケ沢」があり、反別は田87町9反余・畑屋敷32町2反余(うち屋敷3町8反余)の計120町1反余。このうち田は上田から下々田まで、畑は上畑から下々畑まで設定。他に見取場として畑地13町3反余があり、漆木は331本、また古館として笹森館跡6畝12歩が記されています。万治2年、長利甚左衛門は鶴田村・三ツ森村と当村において多数の墾田を開発した功績により弘前藩に召し抱えられています。元禄3年には高杉組に属し、村位は上。江戸末期の御道書明細によりますと、戸数92・人口467うち男242・女223、駒77とあり、村内には代官役所・組郷蔵が置かれています。また笹森館とは別に村の南に古館があったことがわかります。村内の寺社として、貞享4年検地水帳によりますと、高2斗2升4合の山伏日光院と万太夫抱えの八幡社があります。このうち八幡社は地内松ケ沢にある八幡宮を指し、御祭神は誉田別尊・田村将軍の霊神で、坂上田村麻呂が延暦7年蝦夷平定の際創建したといわれ、建治2年再興、明治6年村社(弘藩明治一統誌)。また、重宝錦嚢によりますと、元文3年、三ツ森村より日蓮宗七面山感応寺が当村へ移転。感応寺は弘前城下の本行寺の末寺で御本尊は十界曼陀羅。開山・開基とも不詳で、明治初年の国誌では、元文5年に中興されたとし、その開山を日貞としています。

小高い丘の上に鎮座。

これは手水石かな。

嘉永四辛亥四月廿四日奉納。

庄屋孫吉ほか五人組の名が刻まれています。

不明の石。

建物は3棟ありました。
中央の建物は内部をまったく見ることができず不明。

向って右の建物は地蔵尊。

平成19年8月6日(旧6月24日)御堂新築。
向って左の建物。

青面金剛庚申像でしょうか。足元には三猿。
紀年銘は…宝暦十四甲申年三月かな…見辛かったので自信なし。独狐村中。


で、これは…地蔵の頭部!?

二十三夜塔(明治36年9月23日獨狐村中)。

庚申塔(天保14癸卯年3月17日獨狐村中)



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