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青森県三戸郡五戸町上市川赤川々原。上市川中央のバス停前。
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庚申塚(享保■年2月11日)。
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狛犬一対(安政5年6月11日、西川屋惣吉世話人肝入六助)。西川屋惣吉は五戸の住人。天保年間の分限者で鈴木姓。
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江戸期以降の上市川村についてです。江戸期~明治22年の村名。元和4年の知行目録(南部家文書)には「市川」として217石余とあり、同7年の遣知行村付之高(三翁昔語)には「五戸ノ内上市川」として254石余とあり、江戸初期は根城南部氏の給地でした。村高は邦内郷村志405石余(うち給地272石余)、天保8年御蔵給所書上帳405石余(御蔵高231石余・給所高174石余)、慶応3年五戸通代官所惣高書上帳760石余(蔵入高303石余・給所高457石余)、旧高旧領793石余。正保郷村帳、貞享高辻帳、天保郷帳、安政高辻帳には村名が見えません。邦内郷村志では戸数74、うち本村を除く集落別内訳は北市川20・石呑14・池之堂一銭8、馬188。本枝村付並位付によりますと位付は中の中、家数72、集落別内訳は本村33・北市川15・石呑17・池之堂7。慶応3年の五戸通代官所惣高書上帳によりますと、給人は櫛引蔵之丞・中市左司馬・楢山益人・江渡又吉・種市五八郎ほか10人。地内は狭隘ながらも沖積低地が広がっているため、江戸中期以降に新田開発が進展。宝永2年市川北向で五戸町の商人市兵衛により御蔵新田の開発が行われ、これを機に元文4年には御側新田として藩営事業となり、寛保3年には市川新田奉行が設置されて開発が進められました。万延元年の検地高は熟田8万1,705束刈(81町7反余)、熟畑1,007人役(10町余)。当村北東の池ノ堂平山は宝暦8年に市川新田の立林。天保7年には五戸給人の江渡七郎治・種市五八郎・江渡七兵衛により上市川谷地と石呑谷地の御蔵新田の開発が行われ、安政6年に検地実施。開発高は慶応3年の五戸通御役高書上帳で92石余。新田開発の結果、慶応3年には760石余と増石。天明元年の地面小高場所付帳によりますと、当村の給地高31石余は田1,490苅(14反余)、畑89、7ツ役(26反余)で、地付百姓6人・作人31人により耕作。田畑の等級は田はすべて上田、畑は上畑9か所・中畑13か所・下畑5か所・不明1か所。安政2年には高62石余の仕付高55石余、これから給所高を差し引いた残高は44石余で、これに対する年貢は50貫817文。元治元年には仕付高59石余、給所高差し引き残高47石余に対して54貫700文。地内北西寄りの谷間には池ノ堂沼(大泉坊沼)があります。古来から周辺の潅漑用水源に使用されていたとみられ、江戸期には八戸藩の売市年行事大泉坊の雨乞の祭祀場とされていました。宝永6年の八戸藩日記には「大泉坊先達て市川池之堂へ為雨乞被遣候」とあります。大泉坊の娘が雨乞のために沼に身を捧げたという伝説も伝わっています。年代は不明ですが寺子屋が開設されていたと伝えます。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て同4年青森県所属。明治初年の家数は本村90・北市川34・池堂23・石呑31・前並3。明治8年に民家を仮用して上市川小学が創立され生徒数は男20。同12年の共武政表によりますと、戸数・人口は本村67・471(男245・女226)、北市川33・258(男127・女131)、池ノ堂20・175(男89・女86)、石呑30・211(男120・女91)。学校は本村1、牛は本村1・池ノ堂4、水車は北市川1・池ノ堂1。馬は本村175・北市川87・池ノ堂64・石呑51。
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数年前までは境内に大木もあったそうですが、現在は伐採されており、明るい境内になっています。創建は不詳ですが延享2年9月再建の棟札があります。明治の書物によりますと、建坪18坪、神社敷地は137坪、社守は原太郎右衛門。8月11日の例祭では盛大に夏祭りを行い、山車が3台出場するなど賑いを見せていましたが昭和55年の凶作で中止。
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狛犬一対(昭和3年11月。中里源太郎、上市川村若者中世話人川村万蔵ほか4人。石工、小中野町林孫太郎)。
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石灯籠一対(明治19年11月11日)。
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社守原兵左エ門先祖太郎右エ門が伊勢の皇大神社よりご分霊して神明川原十二番地に奉遷、勧請。その後、天保3年旧3月に水害に見舞われ、本殿を含め全建物が流失。途方に暮れていた時に、当村若者頭中里幸作の長男与惣右エ門が16歳の若さで、父の命令通りに深夜御神体を奉持、現在地に遷座。当時の御神体である木造の馬上姿の天照皇大御神と神殿は、浅水在にある槍水の彫刻師(仏師)藤太郎によって造営したものと伝えます。
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拝殿向拝神額(昭和44年6月川村ふじ敬白)。
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幣殿・本殿覆屋。
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(以下、神社庁より)御祭神は天照皇大御神。例祭日8月11日。旧社格村社。境内地211坪。本殿2坪、幣殿2坪、拝殿15坪。創立年月日不詳。400年以上前、原太郎右エ門がお伊勢様の御分霊を頂いて神明川原12番地に祀りました。その後、天保3年に水害のため社殿流失し、境内地は陥没。当時の若者頭中里幸作長男与惣右エ門(16歳)が、父の命により深夜現境内地に奉遷して現在に至ります。奉遷当時の大工は三戸郡槍水ぼ仏師と伝えられています。
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