山形県飽海郡遊佐町大字北目字家の前。私のナビでは「劔龍神社」と表示されます。
神社入口付近にある石塔群。

庚申塔(天保13年壬寅5月吉日、邑中安全)。

庚申塔(明治44年3月22日)。

こちらは読み取れず。

庚申塔の横。

地蔵尊かな。布で判断できず。

横の石塔には「南無阿彌陀佛」とあります。

参道石灯籠一対。
手水石。

両部鳥居跡。


江戸期からの北目村についてです。はじめ遊佐郡、寛文4年より飽海郡のうち。はじめ上杉氏領、慶長6年最上氏領、元和8年からは庄内藩領。遊佐郷に属します。村高は元和8年の御知行目録では226石余、寛永元年の庄内検地高辻では537石余、「天保郷帳」571石余、「旧高旧領」572石余。慶長16年の検地帳によりますと、田12,432束苅余・畑2石7斗余・山手前1石3斗余、家数25軒、漆ノ木26本、納物門松・せり・炭3籠、肝煎主計。享和3年の御郡中村数家数人高控帳では、家数36軒・人数161。幕末期の「荘内要覧」によりますと、免4ツ7分、家数45軒。承久3年、村内の宮ノ下に鳥海山大物忌神社から勧請した三上神社は、寛文元年村内の楯ノ内に移築。同社は倉稲魂命を祀り、境内には根周り2m余の藤。曹洞宗高徳山宝恩寺は善宝寺23世大年浄椿大和尚の開山で、天正5年には十里塚村の漁師が海中から拾いあげた銅製三尊像を同寺に安置し、30年後に八日町村の本願寺に移しています。寛政2年火災のため同寺は焼失し、楯ノ内に再建。菅原氏は弘化年間寺子屋を開き、嘉永年間には下当村常恩寺に移し、明治7年に開校した常恩学校の前身となりました。寛永の頃、庄内高瀬川(北目河)の洪水の被害が大きく、農民は一時期由利郡小出村畑に逃亡したと伝えられています。寛保2年、当村の農民41名が畑村の開墾を願い出て許されましたが、宝暦3年経営難に陥った農民は年貢の上納に困り、酒田一之丁池田藤九郎に一切の開田地と山林を100両で譲渡。畑村の鎮守太田神社は竜沢山から勧請したと伝えられており、猿田彦命を祀ります。鶴岡県を経て明治9年山形県に所属。同年北目新田村・丸子村を合併。

畑村鎮守。
こちらは何でしょうね。かなり修繕されていますが…灯籠かな。

社殿。
竜沢山から勧請したと伝えます。

御祭神は猿田彦命。

末社。覆屋の瓦がいいですね。

小祠です。

神額には「太田神社」とあります。

三社宮。中央には神宮大麻が見えました。



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