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八戸市市川町字橋向。かつての下市川村で、五戸川下流域に位置し北端を奥入瀬川が東流。東は太平洋に面します。五戸川は市川とも別称され、当村の上流に上市川村があります。永仁5年の五戸郷検注注進状に「いち河」「ととろき」とあります。盛岡藩領五戸通に属す元和4年の南部利直知行宛行目録(南部家文書)に「市川」「三目沢」「高屋敷」とあり、近世初期は南部根城氏の知行地でした。なお「南部八戸家系」(南部家文書)によりますと、元亀2年の根城南部氏と櫛引氏の戦いにより「高屋敷・両市川」は根城南部氏領となったといいます。市川村は上市川村と下市川村の両村を含めた村名と解され、盛岡藩領内では上下2村に分かれていたものの幕府に対しては市川村一村として届け出ていたものと思われます。上市川と下市川の2か村として把握されたものはかなり早い時期からのようで「雑書」の慶安4年6月5日条に「下市河」とあります。また、同書慶安3年8月11日条には「浜市川」ともあり、太平洋岸に近い当村は浜市川とも通称されていたことがわかります。正保2年の国絵図の書上には当村の「はまねいさき」に船遠見番所が設置されているとあり、「雑書」の寛永21年4月26日条には「浜根井」に浦番改が派遣されたと見えます。当村は八戸藩領との境にあり、寛文12年には地内黒森(現三菱製紙敷地内)に境塚を築いたといいます。また、沖合では八戸藩領の漁船が鰯の操業を行ったため、入漁をめぐってたびたび取決めが行われています。神社は地内橋向に白髭神社があり、御祭神は武内宿禰で俗に竜神といわれていました。寺院は北雷平に浄土宗市川山願成寺があり、正保3年の草創といわれ、「国誌」では願叶庵とあり、明治13年寺号を得たといいます。
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石灯籠一対。
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3.5
石碑(昭和50年旧6月14日氏子一同)「吉田九重郎 吉田助太郎 木村格藏、河原専之亟、原田徳松、吉田金藏、木村定松、木村亀之助、泉直太郎、木村種藏、和泉直太郎」。
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御祭神は武内宿禰、俗称竜神。『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)には「五戸川の川口である下市川の白髭神社は竜神を祀り、対岸の橋向の白髭神社も同様である」と書かれています。他にも稲荷神や天満宮などが遷し祀られています。
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例祭日は6月15日。境内地320坪、本殿4坪、幣殿2坪、拝殿10坪。
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6.5
伝承では元禄5年(1692)6月の創立(堂ノ下の白髭神社から分社)と伝えられますが、文久2年(1862)市川村大火の時、日記及び書類焼失のため、由緒その他は不明。江戸時代には村人の手により守られてきた白髭神社ですが、現在は八戸市湊町にある漁業神の産土様として著名な大祐神社の管理になっています。
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新撰陸奥国誌には「里人は竜神と呼ぶが、つまびらかならず、相殿は稲荷三座、明治五年本村より祀る。熊野宮二座、天満宮、支村轟より祀る。漁光神不詳、支村和野より祀る。」とあります。
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拝殿内。
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幣殿・本殿覆屋。
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手水石(明治6癸酉年6月16日、木村助七)。
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狛犬一対(安政6未年6月16日)。
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12.5
境内社。隣はトイレ。
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石塔及び石祠。
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14.5
漁光大明神と刻む鯨の碑。明治5年に下市川村の支村和野から遷したものといいます。高さ約84cm、幅約75cm、奥行約50cm。「文化五年六月十六日」の建立年月日と、建立者名として「肝煎 三四郎 老 七□太郎」と刻みます。裏面には五交のものと思われる短歌を刻みますが状態が悪く判読できません。鯨大漁の記念碑であり、五交が自分の商売と浜市川の漁業の発展を願って建てた碑とも言われます。『南部の碑は語る』(滝尻善英著)では文化3年(1806)に捕獲した鯨の尻尾からノルウェーの鯨銛が出たことを記念して、頭と銛を埋めて、同年6月6日に石碑を建立したといわれています(※碑面では「文化五年六月十六日」とも読めます)。ノルウェー製鯨の銛は地区の吉田氏(かつての肝煎)が所蔵しており、桐の箱の墨書には「文化三年六月十六日市川海岸に鯨九十九頭上り時の庄屋吉田源右エ門速駕篭にて盛岡南部公に上申せし処一頭一両にて貰下げとなる 大鯨の体内に銛入り居り、之を保存し、白髭神社境内に碑を建てゝ漁光大明神として祀る。吉田松次郎謹記 白髭神社由耒、文政九戌年十月十日江戸淺草言問白髭神社より分霊し御しるしを授り竒進して社を造り白髭神社と称す」と記されています。
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『聞き書き多賀の百年』によりますと、市川の五交という人が自分の商売と浜市川の漁業の発展を願い祀ったのではないか、としています。また、大正13年に焼けてしまった五交の「晝(ひる)むかし」が残っていればもっとはっきり解ったであろう、とも記しています。この「晝むかし」に基づいて書いたと思われる文章は残っています。それが八戸郷土史の先駆者小井川潤次郎の『傳説雑纂』です。それによりますと、「「晝むかし」は五交が文政四年に書いた随筆で、文化五年に市川浦に多数の鯨が入ってきた、始末に困った漁師は五戸代官所に願ったが体よく断られ、盛岡の殿様まで交渉して買い上げてもらうことにした。運搬のために解体していたところ、大鯨から二又になった銛(ノルウェー製)が出てきた。ともかく数十頭の牛馬で盛岡まで運んだが、それらだけでなく鯨の臓腑を埋めた近くで水を飲んだ牛馬までもがほとんど死んでしまった。それで鯨の供養をして、漁光大明神として祀った」とあります。この時市川から三沢にかけて浜に寄った鯨の数は巨鯨73頭あるいは鯨児116頭との記録がありますが、「晝むかし」は初めにある程度の大きさの鯨61頭が寄り、その2~3日後に67頭が産み落とされたと伝えます。江戸時代には八戸の海岸に鯨が漂着したことを伝える記録が度々見られ、鯨の骨を使って架けられた白銀町の鯨橋跡や、鮫町の西宮神社に祀られている鯨石には八戸太郎が石化したという伝説を残します。藩政時代、海岸に打ちあがる寄り鯨は貴重なもので、この浜にも寄り鯨があがって村を潤しました。
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明治27、8年戦役凱旋紀念碑。
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