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弘前市平岡町の保食神社。入口となる一之鳥居の微妙な配置から、昔からの社地の形状等がそのままに伝えられている感じがしますね。
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社号標。
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創立5年記念、平岡町納税組合、昭和9年4月22日建立、髙山松堂書、石工吉﨑健次郎。
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5.5
奉祭猿田彦太神、天鈿女命。ちなみに御祭神は宇賀魂神、保食神です。例祭日は旧暦8月22日。町の有志によって維持管理されています。
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天保3壬辰年9月17日講中敬白。つまり社号標の「創立5年」とは平岡町納税組合のことであり、そして下記の鎮座二百年記念碑からするとこの石碑は鎮座百年記念碑でもありますね。以前の記事では「由緒等不明」としていましたが、創建は享保16年(1731)もしくは宝暦4年(1754)とされており、鎮座二百年記念碑から更に推測するならば創建は享保16年。平岡町は宝永年間(1704~1711)に弘前城郭内武家屋敷の郭外移転により藩士が移住したことによって成立し、正徳元年(1716)に駒越町の新割町屋敷として町名がつけられています(町名由来は岩木川の川原と接する岡状の平地という意)。平岡町の成立を宝永年間の1711年、神社創建を享保16年(1731)と推定すると、ちょうど20年後に建立されていることからも、平岡町の産土神もしくは道祖神として祀られ(もしくは移住藩士の氏神であった猿田彦命、馬頭観世音等が崇敬されて後に産土神。※寛政12年絵図では武家屋敷25軒が確認されていますが、天保8年絵図では町屋38軒で侍屋敷は存在せず、町人の町へと変化しており、御祭神が宇賀魂神・保食神となっていることも納得できます)、以後、当町住人たちの篤い崇敬を集めてきたものと推測できます…単なる憶測ですが…私めっちゃ成長してる気がする!勘違い自画自賛!
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手水石。
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狛犬一対(昭和11年旧8月22日建之)。
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9.2
9.4
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台座「平岡町納税組合」
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社殿。
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11.4
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社殿神額。
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拝殿内。
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本殿。
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鎮座二百年記念碑(昭和6年旧8月22日建立、髙山松堂書、石工吉﨑健次郎)。上記でも述べましたが、この石碑からすると創建は享保16年8月22日。中御門天皇、徳川吉宗、津軽信寿(陸奥国弘前藩5代藩主)~津軽信著の時代。地域が限定されることから、ここに刻まれた発起人の子孫も残っていそうですね。
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15.5
百万遍(明治16年4月8日念佛講中)と石仏。余談ですが百万遍について少し。1331年に京都で悪疫が流行し、知恩寺の善阿和尚が7日間で念仏を百万遍唱えて悪疫退散に成功し、そこで後醍醐天皇が知恩寺に百万遍の称号を与え、以後除災招福の多念仏を百万遍と呼び、一部の地域では現代でも続いています。江戸時代からは悪疫流行時に村人が10~20人と村はずれに集まり大数珠をくり廻して念仏を唱え、疫病が村へ入るのを防ごうと祈るようになりました。津軽では江戸時代から明治にかけての百万遍供養の絵馬がかなり残されており、黒森浄仙寺の地蔵堂のものも立派とのこと。石塔として残す理由としては供養の功徳と石の霊力により日夜村を守ってもらうという意味があります。津軽で古いものは弘前市旧岩木町鳥井野の文化3年のもの、黒石の上目内沢の墓地にある文化14年のものなど。私自身読んだことはないのですが、黒石市西馬場尻の対馬松明氏所蔵の「百万遍由来記」は百万遍の歴史や念仏の意義や御利益などについて詳細に記されており、津軽に残されている文書としては非常に充実したものであるとのこと。
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