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青森県上北郡六ヶ所村出戸。国道338号線沿い。地図には恐らく「天照皇大神宮」と表示されますが、資料では「出戸神社」と称されている文献が多かったです。
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かつての出戸村。「邦内郷村志」「旧高旧領」では村高はともに16石余。「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」では村名が見えず、「仮名付帳」には尾駮村の枝村として記されています。享保3年高札場及び家屋17軒焼失。弘化元年横浜村杉山源次郎が当村の檜山運上請負を願い出ています。松浦武四郎の「東奥沿海日誌」によりますと、泊村より出戸まで海沿いに歩き、苦労して三右衛門宅に2泊したことが記されており、また人家は7軒で生活に困っているとも記されています。文久3年天間館村命助が当村棚沢の檜山運上請負を願い出ています。西部の高台に文久3年に建立された出戸神社があり、神明鳥居がたっています。明治の村況は「土地極めて瘠薄にして且田畑ともに少なく、牧牛馬を業とし、北海道に出稼す」とあります。『青森の伝説』に次のような記述があります…『(前略)出戸という部落がある。ここから昔すばらしく大きな馬が出た。馬の背丈をはかったところが高架(今、鷹架)、馬の形が平らかであったので、そこにあった沼を平沼、鞍を置いたところが倉内だといわれる。馬の背が長くて鞍を七つもおけたというが、村人はこの怪馬を恐れて皆で殺してしまった。その埋めた所が七鞍平だという。』なお、ほぼ同じような記述を出戸で宿をとった菅江真澄がおぶちの牧にて記録しています。
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石灯籠一対。
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出戸牧野記念の牛馬像。
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狛犬一対。
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御祭神は天照大神。出戸神社の権現様に納められている棟札によりますと、文久3年銘があり、中央の宮殿には伊勢神宮の天照皇大神宮の棟札があり御神体としています。奉納品の中には「神明宮玉串文久二年四月二十五日神祇伯王家」と記された御神璽を納めた際の木箱があり、昔から例大祭は6月19日と定められ、文久2年以前から鎮座していたことがわかります。南部封域志録第四巻には「北郡出戸神宮」とあり、かつては出戸神宮と呼ばれていました。宮殿には棟札のほかに御神鏡と、「八幡大神海上安全」の木札も安置されています。その他現存する棟札として「明治十四年旧六月二十五日再建天照皇大神宮宝殿一宇(※以下省略)」、「大正十二年旧六月十九日再建修復(※以下省略)」、「昭和四十五年再建修復(※以下省略)」があります。宮殿前には鋼鉄でできた幣束が立っており、その台座には伊勢神宮の勧請を思わせる菊の紋章があしらわれています。出戸神社は漁師たちの信仰が厚く、昭和63年6月19日に出戸神楽連中奉納の舟絵馬が拝殿に掛けてありますが、その絵馬は村内安全・海上安全を祈るとともに、元文2年6月7日に起こった海難事故の際、浦役人玉田与兵衛に報告し、救助活動をした出戸村の肝煎礼太郎と弥七郎を顕彰しています。社殿は元文2年の羽州船破船の際に引き揚げた船バリの木を神社の梁に使って建てたといわれ、その後幾度か修改築を重ねています。昭和26年12月7日に海難で救助された人々の感謝の額(昭和27年1月2日)や、出稼ぎ安全の額も納められ、昭和5年1月15日付と昭和7年3月1日付のカムチャッカ出稼ぎ記念額や、同年の出稼ぎ救友会51人の額も納められています。
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拝殿向拝神額「天照皇大神宮」(昭和59年1月吉日奉納・氏子総代中村勇)。
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境内の稲荷堂。
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稲荷の小祠や蒼前小祠、石地蔵尊などが納められています。稲荷の棟札には「水無稲荷大明神」と見えます。
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境内の石祠。こちらは山の神です。
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境内の御神木に錨が巻き付けられていました。
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出戸牧野記念像の由来…『其の昔出戸南北の原野は尾駮の牧の内であり千数百町歩の放牧地で名馬の産地であったときく。明治末期の頃、出戸より北の原野、北は南川を境に約360町歩を横浜小林区署より借り受け野組合を造り初代に、福岡福松氏が之に就き運営に当り地元始め遠く天間林、浦野舘等の近在から牛馬の放牧が相当あり、その数々百頭に及ぶ、大正の中期二代目中村松太郎氏が組合長に就き牧野改良等の事業を興す、終戦後迄其の職に在りしが戦後其の大部分の地に石川部落の入植が決定しその残地約160町歩を牧野開放により現在の法人組合有地となる。元採草地であった岡畑の地約90町歩の内約50町歩を草地改良事業に依り牧草化を計り村内の肉牛の振興に勉めて来たのであるが、昭和53年村有の放牧地として地域畜産振興に活用される事に衆議一決致し村有地と成る。茲に出戸牧野の往時を忍び今は亡き数多くの牛馬の霊を慰め、又先人の労苦に報いる為祖先がこよなく愛した牛馬像と共に唐獅子、御神燈、階段を造設奉納し記念とする。昭和53年11月吉日出戸牧野組合組合員一同』
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