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大館市桜町南。大館市立城南保育園の横。部垂義元を御祭神とする部垂八幡神社。
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江戸期以降の桜町についてです。近世には出羽国秋田郡大館町内町のうち。秋田藩領。大館町の南端に位置し、町内に桜の木が多かったことから町名の由来をなし、また桂城に対し部垂町の後ろに位置し後町とも称しました。宝永3年検地帳では藩給人37軒の町と記載。俗に首切り寺という極楽寺がありましたが現在は廃寺。明治10年東大館町桜町となり、同22年から大正2年まで北秋田郡大館町東大館桜町、以後大館町桜町。大正2年大館実科女学校(現県立大館桂高校)創立。部垂町に隣接する文教地区をなします。昭和26年からは大館市桜町。続いて、江戸期以降の部垂町についてです。近世には出羽国秋田郡大館町内町のうち。秋田藩領。大館城に南接し、佐竹一門部垂義元の家士の住居地となり町名とします。南は桜町、東は赤館町、西は向町に接します。部垂の由来は戦国期に佐竹義元が横死後、家臣等が霊を弔って一社を建立し、部垂八幡と称したことによります。部垂八幡社は当町にも勧請。他に真言宗鏡寿院があります。宝永3年検地帳では藩士37軒の町と記載。鏡寿院は常陸国部垂にあった稲荷山教乗寺を国替えとともに当町に移建。明治10年東大館町部垂町となり、同22年から大正2年まで北秋田郡大館町東大館部垂町、以後大館町部垂町。明治43年大館女子尋常高等小学校新校舎竣功(現大館市立城南小学校)。文教地区となり、昭和26年からは大館市部垂町。
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石灯籠一対(平成17年旧6月14日、松原誠志建立)。
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社殿隣に桜町会館。社殿と繋がっています。
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向拝。
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神額。
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拝殿内。
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8.4
8.8
部垂八幡神社の由来…『佐竹15代義舜の子、部垂義元を祀る。義元は生家を相続できなくなり宇留野四郎義久の養嗣子となり宇留野城に居城したが、後に部垂城主となった。しかしその後佐竹16代義篤(義元の兄)と佐竹家督の争いにより部垂城は天文9(1540)年義篤の総攻撃を受け、義元は自決し、落城したという。部垂城は廃城となったがその家臣は小場家寄騎となった。慶長7(1602)年19代佐竹義宣が秋田へ国替のとき、一族の小場義成も桧山の霧山城代となったが慶長13(1608)年に霧山城から大館城へ移された。その時、部垂の家臣(部垂衆)も大館の桜町と部垂町に移住し、常陸より移せる八幡神社を建立した。これが部垂八幡神社の始まりである。』
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部垂八幡神社…『佐竹氏が常陸国(茨城県)にいたとき、佐竹氏17代義篤の弟義元が1529年部垂城(へだれじょう)を小貫氏より奪って城主となり、部垂氏を名乗りました。これに恐れをいだいた宗家の義篤は義元を討ちました。その後、義元の家臣は許されて、佐竹氏が秋田に移ったとき大館に配置され、部垂町に住みました。彼らは部垂衆(へだれしゅう)といわれ、義元に対する忠誠心を忘れることなく団結し、義元を八幡とあがめ、この神社を建立しました。部垂城の本丸跡は茨城県常陸大宮市の大宮小学校の地にあります。祭礼は近くの鏡寿院があたっていました。』
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物置。
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神輿がありました。
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末社。
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稲荷堂です。
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石殿2基。
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唐松神社。
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庚申塔。
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