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八戸市坂牛。櫛引八幡宮南参道の先が坂牛集落。田面木地区と八幡地区の中間の山寄り。櫛引八幡宮の例大祭では天狗沢、笹子、田面木などの近在の農家が作った郷土玩具である八幡馬が坂牛を通って運ばれていました。坂牛は櫛引八幡宮と一体の地域として存在したと考えられており、神社に通じる交通路としての役割を担っていました。
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坂牛集落の小高い丘の上に曹洞宗福聚山涼雲寺が鎮座しており、その隣の杉木立に囲まれて坂牛観音(坂牛八幡宮)が鎮座。御本尊は千手観音(御祭神誉田別尊)。坂牛集落の産土。例祭日9月17日。境内地443坪、本殿1坪、幣殿1坪、拝殿15坪。本殿奥に納められている篆書の扁額には「圓通殿」と篆刻(※神仏分離前まで掲げていた扁額。観世音菩薩=円通大士、つまり観音堂。)。糠部三十三観音霊場第十三番札所。八戸御城下三十三観音霊場第二十五番札所(坂牛村観世音・千手観音、「たのもしや誓ひはおもき坂牛にひかれてまゐる後の世のため」佐々木恭岑上人)。境内の手水舎には「八戸御城下八戸藩廿四番札所」と刻みますが、これは文化10年の岩井重良兵衛愛秀による巡礼番付(御詠歌不明)。
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手水舎。
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石灯籠一対(文久2年8月12日)。
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切株。
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庚申塔(文政5年)と金毘羅大権現(文久3年7月17日・裏面「西國三十三所」)。
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中央の碑は「下部の供養塔」しかわからず。
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社殿前の手水石。
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4間四方の社殿。
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寛永10年、櫛引氏の一族である坂牛氏が居城の守護として坂牛観音を勧請し観音堂を創建。享保元年に八戸禅源寺の大江東儀が一石一字の経塚を本堂裏に築いて、同年八戸天聖寺の即誉安西が三十三所の札所を撰びその第13番所に定められてました。
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寛永8年4月に出火炎上し、別当源助・施主長四郎により現在の堂宇(八幡宮社殿)を再建。弘化2年に修復し、文化10年八戸藩士岩井慶彦が御城下三十三所を選んだ時には第24番に定められています。明治4年の神仏分離に際して、隣接する曹洞宗涼雲院と分かれ、聖徳太子御作と伝わる本尊千手観音像を涼雲院に遷し、御祭神を誉田別尊として祀り、村社坂牛八幡宮と称して現在に至ります。地元では現在でも坂牛八幡宮と呼ぶよりも「坂牛観音堂」もしくは「さごしの観音様」と呼ぶ方が通じるみたいです。聖徳太子の御作と伝える秘仏観音像ですが、昭和61年に坂牛八幡宮の管理者山田源弥氏から依頼されて調査をしています。内御堂の二重に錠が掛かった扉を開くと、空間いっぱいに御神鏡が祀られ、その奥に錦布い包まれた高さ約30cmほどの観音像が安置。胴体内が空洞の内刳り。像内をくりぬいて木芯を取り、干割れを防ぐ技法で彫り上げる一木割矧造。顔は面長で笑みをたたえた彫眼技法の目。装飾品は無く、衣だけをまとっており、かつては金箔が施されていたと考えられます。室町末期から江戸初期の作と推定。弘化2年3月18日の棟札があり、「奉修覆 坂牛村千手観世音菩薩大公御武運長久」と墨書きされています。写真で見た感じでは千手観音に見えませんでしたが、台座の背後に縦1本の木が立てられており、そこに後手である千手と光背が備え付けられていた可能性があるそうです。また、この地は八戸藩修験者の総録である常泉院の霞であり、藩主の祈願所として定められてきたことが棟札の裏面に記されているそうです。常泉院は遠方のため、普段は涼雲寺が管理を任されていました(専任住職がいなかった時代は地域住民が管理)。
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拝殿向拝。
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拝殿内。かつて涼雲寺が管理していましたが、現在は櫛引八幡宮が主管しています。
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観音堂の壁には巡礼者の札がたくさん貼られており、多くの方々の信仰心の篤さを感じることができます。御詠歌「六道をかねてめぐりておがむべし又後の世をきくもさかうし」
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