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八戸市白銀4丁目。
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すぐ近くの清水川観音堂(糠部三十三観音霊場第六番札所。浜清水観音・白銀浜清水観音)とは少し離れた場所に鎮座しております。地図には「白銀浜清水観音」と記されており同名です。
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こちらの由緒等は調べておりません。
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すぐ近くの清水川観音堂との関連性もよくわかりません。
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そして清水川観音堂よりも立派な建物ですが…
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「神様はここにおりません。山形におかえりになりました。」とのことです。山形へ…よくわかりませんが、知っている方がおりましたら、ご教示を賜りたく存じます。
※頂いた情報によりますと、昭和の頃には出羽三山神社として存在していましたが、昭和36年5月29日に発生した白銀大火(白銀町全戸数の内70%が焼失)で焼失し、その後再建されるも、神社を引き継ぐ者がいなかったことから神様をお返ししたということです。出羽三山神社だから山形へおかえりになったのですね。
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眺望。
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8.5
黄色で囲んでいる場所が清水川観音堂、赤色で囲んでいる場所が清水川(白銀清水)です。
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ここで昔の白銀について少し記しておきます。江戸期の浦名。三戸郡浜通村を形成していた10か所の浦の1つ。白金村・白金浜村とも称しました。元和3年、盛岡藩主南部利直により根城南部氏の給所が田名部から八戸へ移されますが、その時の書状に書き上げられた八戸の浜23か所のうちに「一、しろかね」と見え、早くより浜として成立していたことがわかります。なお、行政上の浜通村の中心は湊で、湊が10か所の浦を代表していました。また、八戸藩の領内支配上、石高把握では10か所の浦が浜通村と一括されましたが、浦支配のうえでは湊とそれ以外の前浜通とに分けて把握されます。なお、湊・白銀浜・鮫湊をあわせて一般に八戸湊・八戸浦と称し、八戸藩の輸出入港の役割を果たしました。特に明和7年の「日本汐路之記」に「(湊ヘ)大船入かたきときは白銀浜へかかり荷物積也」とあるように、当浜は湊・鮫湊の補助港的役割を担っていたと考えられます。当浜の高は「正保郷村帳」では白金浜と見え70石余(田20石余・畑49石余)、「貞享高辻帳」では白金浜村と見え70石余、「元禄10年高帳」では「白金浜のこと大久保村」と見え110石余(田14石余・畑96石余)、「天保郷帳」でも白金浜村と見え134石余。なお、当浜は石高把握では浜通村に統括されていたと思われ、これらの高には疑問が残ります。延享4年浦数覚では、八戸廻22浦のうちに白金が見えます。「雑書」の正保2年10月21日条に「二番鱈一於八戸白金浜兵庫助と申者一昨廿五日之暮」と見え、また、明暦2年10月には初鱈から3番鱈までを当浜で占めています。寛文12年領内制札建場所の1つに当浜が見え、浦札・忠孝・切支丹禁制など計6枚が掲げられました。御領内巡見覚帳によりますと、元禄3年の家数は78で他領から来住の家持4、猟船数は46艘(6人乗り4・5人乗り1・3人乗り1・2人乗り28・半役12)を数えます。鰯の〆粕と魚油の生産高は、明和6年1、130俵・315樽。鰯釜数は宝暦11年8口、翌12年10口、明和7年23口。当浜の鰯の水揚高は「八戸藩日記」文化6年12月条によりますと1,670貫300文。但し、同年の「八戸藩勘定所日記」では2,613貫700文。また、天和元年には36頭の鯨を捕獲、解体後の骨で地内の小川に鯨橋が架けられたといいます。「八戸藩勘定所日記」によりますと、文政9年4月船着き場の浪請(防波堤)工事がなされ、天保4年には東御蔵・西御蔵と呼ばれる2つの浜蔵が当浜に存在。「八戸藩日記」宝永元年6月4日条に「殿様今日妙野江御出被遊直々白金御仮屋江御出被遊」とあり、藩主の御仮屋が置かれていたことがわかります。嘉永2年の酒屋数は2軒、弥兵衛と甚兵衛に酒箒が許されています。なお、この両人は網持で、弥兵衛は糀屋、甚兵衛は質屋も兼ねていました。火事による主な被害として、寛文11年2月に13軒、享保10年5月に8軒、同15年3月に7軒、文政8年4月に2軒、嘉永元年12月に4軒、慶応元年3月に55軒を失っています。寺社は曹洞宗銀浪山福昌寺、三島神社、清水観音堂が見えます。うち清水観音堂は糠部三十三観音第6番札所(奥州南部糠部順礼次第全)。慶応4年6月肥前兵乗船の孟春丸が白銀浦で座礁。明治になってからは浜通村支村白銀村と見え、浜通村の一部として扱われています。なお、明治初年の「国誌」では白銀村を一村と扱っており、家数11、村況は「土地下之下、田なし、農耕するもの四分、漁捕する者四分、商漁の者二分あり〈商漁の者をイサハと呼〉」とあり、東南部に大久保平、西端に浜の平という原野2か所がありました。
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