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清水川観音堂(白銀村清水寺・浜清水観音・白銀浜清水観音堂)。JR白銀駅から鮫駅に向かって500mほど進んだ線路沿いに水が湧いており清水川と呼ばれています。八戸市白銀2丁目。地図によっては当清水川観音堂のすぐ近くに、同名の「白銀浜清水観音」という場所も記されているのでお間違いなく。清水川観音堂は線路沿いになります。ちなみに八戸市白銀地区には「嫁もらうなら白銀の娘」「白銀には嫁にやるな」という2つのことわざがあるそうです。
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守西上人の糠部三十三観音霊場第六番札所(松尾頂水では五番)、八戸御城下三十三観音霊場第三十番札所(佐々木恭岑上人)。月例祭は毎月17日で、御詠歌があげられ、12月17日の御縁日にはお籠りが行われています。御詠歌は守西上人系が「無刹不現身 白銀浜の観世音 於苦悩死厄 念被観音」、頂水系が「参るより みをかける清水寺 白銀濱に五色の雲立」。岩井重良兵衛愛秀は「補陀落やきしの真砂も白銀の大悲に札を打つぞはじむる」、佐々木恭岑上人が「水きよき浪間の月やしろかねの聲のひびきにあくるうなばら」※文化10年の岩井重良兵衛愛秀「八戸御城下三十三札所」では一番札所で観音信仰の盛んな発心の聖地
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堂前に「オヨリ場」と呼ばれる占い場や井戸の跡があります。
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小祠と井戸の跡。
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現在の三間四方の観音堂は昭和36年の白銀大火で焼失した後に再建されたものです(観音像は地元の信者が運び出して難を逃れています)。
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御本尊の十一面観音は津要玄梁の作。高さ約30cm、黒漆塗りの立像で、右手が与願印で左手水瓶を持っています。着物を着せるように「オセンダク」(オヘンダグ・オヘダグ)と呼ばれる錦布に包まれていますが、装飾品は無く、袂の長い衲衣をまとっています。衣装は新しくすることで霊力を高めるといいますが、清水川観音のオセンダクは勝手に脱がせると災いが起こるといわれ、交換するとき以外は決して身体を見てはならないという禁忌が守り継がれています。※祭壇中央の御神鏡の背後に秘仏として安置されていましたが、現在は聖観音を祀っているようです。他には権現様、延命地蔵尊、不動明王、お薬師様、明神様、稲荷様などの神仏も祀られています。※オセンダクはオシラサマや子安様に見られる民間信仰の形態
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清水川観音堂の創建は不詳ですが、口伝によりますと、白銀に住む信心深い漁師が漁に出ると、網に黄金の聖観音像(旧本尊)が引っ掛かり、これは粗末にできないということで、丘の上にあった藩主が立ち寄る御仮屋に祀って礼拝したところ、翌日から大漁が続いたといいます。その後、七崎山徳楽寺観音の兄貴分として、清水川の畔に七崎永福寺(普賢院)が別当を務めてお堂を建立したといいます。観音堂は元禄年間に建立されていますが、ある時旅の六部(六十六部)が観音堂に宿泊した折、創建当初の堂に放火し、御本尊を盗み去りました。御本尊が不在となっても巡礼者が多かったため、津要玄梁和尚が十一面観音像(現本尊)を一木造で刻んで再興したといいます。
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伝説としては坂上田村麻呂将軍が現鎮座地より東に約300mほどの場所にあり、その白銀の清水川上段に正(聖)観音を祀り天長年中に七崎に移したというもの。更に流刑となった藤原諸江卿が白銀で漁師となり、天長元年4月に観音様を引き上げたため社を建立して祀り、承和年正月7日に夢のお告げを受けて七崎に遷座し、諸江卿が逝去した後、諸江卿を荒神としてお祀りしたというものがあります。※郷社七崎神社誌によりますと「文政三庚辰年如月七崎山徳楽寺正観世音伝話記ヨリ抜抄シテ明治十二年書上ケタリ」。
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「八戸浦之図」には観音堂の位置が段丘上に描かれています。説明に「白銀の観音ハ、七崎村観音の本宮也。御当家に正瑞のある正観世音にて、永福寺是を別当す。観音地領五百石、別当三百石、合て八百石、霊現験巌也」とあります。※七崎山永福寺は現普賢院
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不動明王。古懸山國上寺の御護摩札がありました。
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権現様。
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オシラサマ。
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久渡寺御守もありました。
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オシラサマの記事(古川実)は貼られていました。
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オシラサマと呼ぶ2体一対(一対で一頭という)の神様はその形状や神格、祭祀方法、祀り手が女性です。山形県のオコナイサマや福島県のオシンメイサマと呼ばれる神様と同様で東北地方一円に見いだせる神様ですが、個々のオシラサマにまつわる伝承や遍歴は多様かつ複雑で、未解明な部分も多く、謎の多い神様でもあります。オシラサマが学術上、全国的に知られるようになったのは明治27年に東京人類学会雑誌に掲載された伊能嘉矩の論文「奥州地方に於て尊信せらるゝオシラ神に就きて」によるとされます(岩手県遠野のオシラサマ信仰)。更に明治43年刊行の「遠野物語」(柳田国男)により更によく知られるようになりました。青森県におけるオシラサマ研究はイタコの伝承の採録と一体となって、柳田と親交のあった八戸の郷土史研究家の中道等や小井川潤次郎により、大正末ごろから始められたと思われます。オシラサマの御神体の多くは高さ30cmほどの棒であり、桑の木を用いるものとされます。棒の先端には男女の顔で一対、もしくはお姫様と馬の顔を一対としたものが彫られていたり、墨で描かれたりしています。南部地方では正月の16日、もしくは農作業が始まる3月16日にオシラサマの祭りを行うことが多いです。オシラサマのある家では、主婦がオシラサマに新たなセンダク(布)を着せ祭壇に安置し、コメ、大豆、小豆などの穀類を供え、イタコを呼んでオシラサマを遊ばせます(南部地方ではホログともいいます)。イタコは、その家屋敷の祈祷の後、オシラサマを一体ずつ両手に持ち、オシラ祭文を唱えながらオシラサマに動きを与えます。このオシラ祭文がオシラサマの由来を語ったもので、いわゆる馬娘婿姻譚(ばじょうこんいんたん)です。
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娘と名馬栴檀栗毛が恋に落ち、それを知った娘の父親が馬を殺し、馬皮を枝にぶら下げました。娘が変わり果てた馬を発見したとき、馬皮が娘を包み込み天に昇っていきます。やがて、天から馬と娘が黒い虫と白い虫となって降りてきますが、それが蚕であり、その後、桑の葉を食べさせて大切に蚕を養うことになりました。オシラ祭文は、娘と馬が悲恋を乗り越え、地上に幸をもたらす神様になった物語ですが、実はオシラサマは養蚕の神様であると語っています。南部地方ではオシラサマを家の神、農神とすることが一般的であり、祭文との差異はオシラサマの謎の一つとなっていますが、いずれにしましても家や生業を支える柱として馬が非常に大切な動物であったことがわかります。※オシラ祭文は口頭による師資相承のものであり、師匠の系統により祭文の内容や唱える調子は異なります。南部地方のオシラ祭文には「まんのう長者」「きまん長者」「しまん長者」の3種類があり、上で紹介したものは「まんのう長者」の粗筋であり、娘の父親がまんのう長者です。娘と馬との婚姻話は4世紀頃の中国の小説集「捜神記」に見られ、話の展開に共通性が認められることから、中国から日本に伝播し、巫女たちによって語り継がれたものとされています。
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清水川観音堂の由来はすぐ近くにある湧水(通称清水川、白銀清水)に由来。湧いている水は清水川と呼ばれていますが、このようにコンクリートで足場を整備した幅約1m、長さ約6mの湧水場です。源義経が白銀の源治囲内に逗留している時に、水汲みに来る若い娘と恋に落ち、やがて娘に子が生まれたという伝説も残します。
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浜通りの海岸段丘下にはいくつもの湧水があり、白銀町の清水川は三島の水とならんで名水として知られています。どんな日照りでも枯れたことはなく、平成6年12月の三陸はるか沖地震で水道が止まった際にも地域の人々は水に不便することはありませんでした。
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「八戸浦之図」には「此清水いかなる日てり年といへとも、不足を見せず。極暑炎天に魚をひたしおくに、四五日を経てとりあげ、却て、今網上の魚より鮮やかにいきいきとして味ひ美也。」とあります。また、郷土の銘酒「男山」は、この水を馬車で湊まで運び造られたといいます。
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現在も地域住民が共同で整備して利用しております。水路は用途によって3段階に分けられており、上段から飲料用、食器洗い、洗濯用(4段で上段から飲料用、野菜用、食器用、洗濯用とも)。地域の生活に根付いた湧水は毎月26日が掃除日となっております。白銀の女性はかつてこの水汲みをすることが仕事の一つであり、高台に住む女性はてんびん棒で水おけを担いで坂道を往来していました。この重労働を日課としていた女性は足腰が強く、他の村からは重宝され、逆に白銀に嫁入りすれば苦労するという親子心が込められた言い伝えが記事の冒頭で紹介したことわざです。
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絵も素敵ですね。
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いい雰囲気の坂(階段)があったので上ってみます。
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上から見た清水川。
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かもめちくわ食べたくなりました。右端にちらっと写っているのが冒頭で紹介した同名の「白銀浜清水観音」(黄色い丸)です。
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