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山形県鶴岡市馬町宮ノ腰。
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椙尾神社の隣。真言宗豊山派。神宮寺。
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手水石と地蔵堂。
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4.5
庭園と石灯籠。
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美しい苔。
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6.5
法印泰英、清水大人壽藏墓碑と崩壊した石灯籠。
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詳細な由緒等についてはわかりませんでしたが、別当寺とのことで椙尾神社の記事も参照ください。なお、椙尾神社参道を挟んで向こう側にも山門らしきものが見えましたが行ってません。地図で確認すると酒井神社とありました。この付近は神社仏閣がたくさんございます。
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以下、馬町及び馬町村についてです。馬町は江戸期の町名ではじめ尾浦城、慶長8年からは大山城の城下町の1つ。大山城の北、秋田街道に沿って位置し、伝馬駅馬の町で、小字に駒繋があります。元和8年最上氏の改易とともに大山城は廃城。当町は大山村に含まれ、寛永19年の大山御検地水帳改之新帳の中に馬町と見えます。同帳による高持百姓数は馬町29・興徳寺前2・宮ノ下23。慶安2年大山村が大山藩に分知された際に、馬町・興徳寺前・宮ノ下は大山村から分離し、馬町村として庄内藩領に残されました。馬町村は江戸期から明治22年の村名。田川郡のうち。慶安2年大山村が大山藩に分知された際に大山村から分離されて成立。庄内藩領。京田通に属します。村高は寛文3年庄内高帳では899石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,040石余。当村の伝馬役はその後も継続され、正徳4年の条々に「大山馬町より鶴岡迄一里三十一町、駄賃五拾六文」と見えますが、江戸後期になって伝馬役は大山村に移管されました。宝暦7年に庄内藩が庄内の沖出港を酒田・加茂・鼠ケ関の3港に制限したため、幕府領湯野浜村から船積みする大山酒その他を当村で阻止。そのため松倉越加茂道よりも加茂坂道が多く使われるようになり、当村経由の荷物が減少し、伝馬の維持が困難になったことによります。天保11年庄内藩に長岡転封の幕命が降った時、近隣26か村で構成する西郷組大庄屋書役の当村本間辰之助が、西郷組の百姓12名の駕籠訴第一陣を江戸に送り、転封阻止運動に先鞭をつけ遂に幕命を撤回。事件後、酒井氏の恩徳を末永く忘れぬように祠を建て霊松殿と名づけ、毎年幕命中止を伝える急使が鶴岡に到着した7月16日に祭りを催すようになりました。明治期に酒井神社と改称。同社の宝物に事件の顛末を絵巻物にした「夢の浮橋」があります。地内の椙尾神社は武藤氏の尊崇を受け、また最上義光が武運長久を祈願し黒印地170石を寄進しています。神前の石鳥居は慶長16年大山城主下次右衛門実秀と家老原美濃守頼秀が越前国北ノ庄(現福井県福井市)から取寄せ寄進したもの。同社の氏子は大山・面野山・栃屋など27か村に及びます。祭典は犬祭とよばれ、庄内三大祭の一つ。丹波のメツケ犬が毎年美女の人身御供を要求していた怪物を退治した伝説によります。その他文明年間勧請の天満神社、寺院に曹洞宗興徳寺、新義真言宗(豊山派)永福寺、同湯殿山派地蔵院があります。明治7年宮山学校を設立。鶴岡県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図によりますと、反別197町9反余、戸数129・人口801。宮山学校が同16年馬町学校と改称。明治11年西田川郡に属し、同22年西郷村の大字となりました。
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