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岩手県盛岡市名須川町。曹洞宗松峰山東顕寺。御本尊釈迦牟尼仏(京都大仏師・駒野丹下定正作)。盛岡三十三観音霊場第25番札所(御本尊十一面観世音菩薩。御詠歌「三ツ石の神に大悲の跡たれてあらぶる鬼をしりぞけにけり」)。山門は文化4年造営。切妻、桟瓦葺、一間一戸、四脚門。
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盛岡市指定有形文化財…『1.名称:十一面観音菩薩坐像一体。2.説明:寄木造の漆箔像で、肩幅と膝幅の比率も小さく、こじんまりとして相好は優しく、彫り口は大胆ですが、像容は整っており端正です。作風は京の七条仏師の流れをくむもので、江戸初期の制作とみられます。本来、この像は三ツ石神社の本地佛(神が仏の形をとって仮に現れた姿、権現)であり、歴史的な価値も高い作品です。1.名称:大黒天立像一体。2.説明:一木造の素木像で、兜をかぶり右手に剣を持ち、左手に宝珠を載せて俵の上に立ちます。眉毛や顎鬚は線刻で入れ、眼も彫眼です。唐風の兜に剣を持つ型は古く、室町期を下らない制作と見られ、力強く雅致に富んでいます。不動大黒とも称されるこの期の大黒天像は、県内でも希少な作品です。3.指定年月日:平成4年2月15日。4.所有者:東顕寺。平成21年12月盛岡市教育委員会』
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一徳庵二世澤田芳洲句碑。
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碑文・読み。
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碑の説明について…『この碑は、一徳庵二世澤田芳洲の句碑です。芳洲(通称澤田喜兵衛)は、和賀郡黒沢尻に生まれる。12歳から日詰町小野酒屋に勤める。後年、大番頭となる。18歳頃から俳句の道に志し、於曽啓之丞(俳名一徳庵此一に就いて俳道を学び、此一亡きあと一徳庵の名跡を継承し門人も少なからずあり、斯道の宗匠大家とも廣く交際をするなど中央にもその名が知られていた。その後、此一の子、五楓に一徳庵の名跡を返して、遅日庵芳洲を称せり。明治25年8月19日死去。享年50歳。建立の由来は、芳洲の流れを慕う門人たちが後世に伝えようとして、明治47年に建立したと言われています。書は、山口剛介(刀岡)50歳頃の作です。昭和9年歿。享年78歳。平成15年3月東顕寺』
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石川金次郎碑。
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「正義は最後の勝利なり」
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六地蔵。
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至徳元年(1384)古山良空大和尚(正法寺第4代住職)開創。開基福士五郎政長公。福士氏は南部氏が盛岡に築城する以前よりこの一帯の警備を任せられていた武士。南部氏が盛岡城を築城以降、福士氏は現滝沢市の鵜飼に移り「不来方氏」を名乗ることになります。東顕寺は現在盛岡市の北山地区の寺町に位置しますが、この地域は南部氏が不来方城(盛岡城)を築城した際、鬼門固めのために移転した場所。
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東顕寺の本寺にあたる正法寺(大梅拈華山圓通正法寺)は岩手県奥州市水沢区黒石にあります。正法寺は日本一の面積を誇る茅葺き屋根で知られるお寺。東顕寺の開山である古山良空和尚さんは、この正法寺の第4代目の住職を務めていました。正法寺の歴代和尚さんが新たに開かれたお寺は全部で73ヶ寺あり東顕寺はそのひとつになります。末寺として、養広山正傳寺(盛岡市愛宕町・東顕寺二世天簔舜賀大和尚開創)、宝鏡山清養院(盛岡市名須川町・東顕寺二世天簔舜賀大和尚開創)、巖鷲山東林寺(滝沢市大釜外舘・東顕寺三世南翁東橘大和尚開創)、天恩山宮澤寺(盛岡市本宮・東顕寺六世嵩嶽善壽大和尚開創)、煙峰山實相寺(矢巾町煙山・東顕寺六世嵩嶽善壽大和尚開創)、玉東山東楽寺(盛岡市玉山区玉山・東顕寺七世俊庵門鷹大和尚開創)があります。寺宝の中でも十一面観音菩薩座像(三石神社の本地仏。江戸時代初期作、京七条仏師流、寄木造、漆箔仕上げ、像高18cm)と大黒天立像(室町時代作、一木造、素木、像高27cm)は盛岡市指定文化財。
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本堂。文化3年造営。盛岡市保存建造物(昭和54年指定)。
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木造平屋建、入母屋、本瓦葺き、平入、桁行8間、正面1間唐破風向拝付き。外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、腰壁板張り。棟梁は大工町出身の戸沢甚助。何度か改修があり、本堂前には屋根が本瓦葺き(現在は銅板葺き)だった時の鬼瓦が保存されています。
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東顕寺本堂(盛岡市指定保存建築物・昭和54年4月5日・第17号)…『この寺の本堂は、文化3年(1806)の建立であり入母屋造り本瓦葺屋根、向拝天井の組み物、内部の海老虹梁や扇垂木など、木造建築美が随所に見られる建物である。』
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鬼瓦。
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保存説明文…『ここに保存してある鬼瓦は、銅板に葺き替える以前、即ち本堂の屋根が瓦葺き屋根の時代に鬼瓦として本堂の屋根に設置されていた二個の鬼瓦の内の一個である。約70年の間、本堂の屋根を守護し且つ東顕寺を守護してきた鬼瓦でもある。今次、銅板の屋根に葺き替えするにあたり、此の場に保存をし永く後世に伝えると共に、末長く東顕寺を守護してもらうと共に、檀信徒各家の家門の繁栄を祈念するものである。さて、本堂の屋根の変遷を振り返ってみますと、文化3年(1806)現在の本堂が再建されたのであるが屋根は柾葺きであった。大正11年に柾葺き屋根から瓦葺きの屋根に改装したのであるが、今次銅板葺に改装するまで約70年間瓦葺きの屋根であったことになる。この70年間、この鬼瓦は屋根の両端に鎮座していたことになる。昭和63年4月2日銅板葺替えの工事に着工(着工法要を厳修)昭和63年8月10日、本堂屋根並びに位牌堂の屋根両建物の屋根工事を完了す。因みに位牌堂の屋根はトタン葺きであったが腐朽が甚しく銅板葺に改装をした次第である。昭和63年8月盂蘭盆 東顕寺住持比丘 村井禅祐記。』
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位牌堂・開山堂。
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灯篭一対。
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天水桶一対。
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目時隆之進墳墓・開基墓所・歴住塔があります。
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本堂裏手の歴住塔から三ツ石神社の三ツ石(鬼の手形)が見えました。
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岩手山も見えます。
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餓死亡霊供養塔。
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盛岡藩で飢饉の犠牲者(天明3年11月20日-天明4年3月8日まで男女490人)の供養のため、文化7年に東顕寺18世高惇源底造立。「文化七庚午四月吉日」の銘あり。平成元年に盛岡市指定有形民俗文化財に指定。
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愛育地蔵尊。
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