1
秋田県湯沢市駒形町八面宮ノ前。
2
社号標。八面(やつおもて)神社と読みます。
3
鳥居(平成13年9月吉日)と狛犬一対(八面親睦会・平成14年5月吉日)。
4
4.4
4.8
鳥居前の風景。
5
5.5
鎮守の杜。
6
参道増設記念碑(昭和40年乙巳・62歳、42歳一同奉納)。
7
鳥居建立寄附者芳名碑(昭和43年5月)。
8
『右銘板に刻んである昭和43年5月建立の鳥居が、平成13年7月神社土台改修中に工事出入り業者の車両に因る、不慮の事故により破損した。現鳥居は、請負業者の弁償により再建したものであるが、その際、時代の変遷に拠り従来の鳥居より一回り大きくすることを要望した為、建立費用掛り増し分は神社側の負担で施工したものである。平成13年9月吉日竣工』
9
鳥居をくぐって左手に社殿があります。
10
古来より八方厄除け、赤ちゃんの身体堅固・夜泣き封じ・カンの虫封じ、安産祈願また入試の時節柄、高校大学・各種学校の成就・合格祈願に多くの方々が訪れています。また、近年ではペット用のお守りやキティちゃんの珍しいお守りなど約13種類の可愛いお守りで人気を集めているようです。助勤されている巫女さんが企画したオンリーワンなお守りとのことです。
11
灯籠一対。
12
12.5
御祭神は天照大神、素戔嗚命、大山祇命、豊受姫命、三吉大神、菅原大神。例祭は8月19日。神社庁によりますと境内神社として八体仏神社、稲荷神社、天満宮が記されています。
13
寛治5年(1091)創建。「八面荒神社由緒禄」によりますと、寛治3年、八幡太郎陸奥守源義家朝臣が仙北金沢の城追討の時、難戦してこの尊神に祈願したところ、その夜神前より白鹿が現れて、鬼切辺の山中に入っていった鹿の跡を追って、数万の軍勢は無事そこを切り抜けることができ、また、その後も度々の戦で難戦の度に白鹿が現れて大勝利をしたので、義家は自分で神像を彫刻して、八面大荒神として神社の田地とともに寄進されたと記されています。
14
14.5
拝殿向拝唐破風懸魚、蟇股、木鼻等。
15
拝殿向拝神額(昭和25年9月19日)。拝殿内神額には「八河山」とあります。神前山号を八河山と称します。
16
摂社豊受神社。由緒は下記にて。
17
境内社。
18
正面に八面宮と見え、その後ろに横並びで8基の小祠がありました。よく見えませんでしたが十二支八体仏かも知れません。いかした手作り灯籠もありました。
19
「八面神社縁起」碑…『八河山八面大荒神由來。当初産土神なり。別当修験喜宝院街道筋より東の方五丁余に社地ありて祭神は八王子則ち素戔嗚尊の御子大国主尊初め五男三女の神なり。抑当社の由縁を尋るに往昔奥州平泉の庄に鎮座其後人皇七十三代堀川院の御宇寛治三巳年八幡太郎陸奥守源義家朝臣出羽国仙北金沢の城追討の時奥羽境中山越の通口敵堅く守るに付甚だ難戰に思召され此の尊神に祈願あり其夜鶏鳴に神前より白鹿顕れ鬼切辺の山中に入る義家朝臣諸軍に命じ白鹿の跡に続き鬼切辺の山中数里の深山鹿の足跡を慕い数万の軍勢無恙して出羽仙北川連小坂の山にて鹿の足跡見得ず、其処に暫く諸軍在陣し賜ふ則川連八幡館是なりき其後数度の合戦三年の間度々難戦毎に白鹿顕れ八剱八弓の不思議あり又陣中五更の頃何国ともなく駿馬に乗たる武者八方の口に忽然と顕れ敵陣に鏑兵の音あり其後追日敵陣備破れしとかや是当社八王子の尊霊なり寛治五未年武衡家衡の強敵追討し則此処に宮柱を移し一社建立あり扱陣中八方の攻口にて駿馬に乗り懲悪忿怒の相を顕し賜ふ神像一体義家朝臣自ら彫刻し八面大荒神と奉唱し給ふ当社の神体是なり神供領寄付ありしが其後荒廃し其処を八田堰と号す字となる今田面にて其字あり猶も神領開発のため八筋の神堰を通ふし其名今は枝郷の字となる仙道佐野中嶋羽立新町西川連松館鼠館是なり入筋の堰を用ひ神前山号を八河山と称し賜ふ枝郷蜘手のごとく八方を敵在し其中を本郷となし尊神の唱を以て八面の里と八幡太郎義家公唱え賜ふ里名なり、扨尊神像体義家朝臣の彫刻にて社堂建立し賜ふに寄り日に増月を重ねて霊験炳然し宮社巳年の方に向ひ造立せしは奥州平泉の旧社に後向きなきの例なり、其後時世移り天正十六子年押領主小野遠江守通春の乱戦兵火に掛り堂社宝物義家公の祭文縁起等まで残り無く焼亡す年久しく社堂再建乱国のため空しく中絶して年月を送りぬ神の森草木茂り日影も見得ぬ深林となり其頃神泉より折々夜光輝きて林中鳴動しけること度々なり里人怪み是は天魔か狐狸の業なるかなと誰か林中に立寄る者なし廿余年の星霜を送りて元和四戌午年山城国鷲峯山金胎寺の行者に関袛阿闍梨城山法印役の行者法跡を慕ひ諸国霊山霊場掛廻り此地に耒り林中夜光鳴動する事を聞伝へ是必止定霊場なるべしと彼の林中に通夜せしに闇夜の折卯辰の方より鳴動く光明輝き林中白昼の如し能く光の元を尋ね見るに大大の松あり其松の虫喰穴より光明赫々たり暁得て里人に此松を伐らしめ引分け見るに不思議なるかな駿馬に乗じたる八面霊神の尊像千才の松樹より出現し賜ふ是則往昔八幡太郎義家公彫刻の尊像なり天正十六子年の兵火に火中より飛出し此の松樹に隠れ賜ふと云云不思議と申すも余りなり夫より関袛阿闍梨城山里人と語合社堂再建せしめ霊験日々に増長しぬ此関袛阿闍梨法印は山城国深草の産にして鷲峯山金胎寺に一役の行者なり則別当喜宝院高祖是なり尊神松樹より出現の日は五月十九日なり、此日祭日と定め毎年礼祭無怠其後数百年の星霜を経て氏子長司沓沢源助といふ者あり壮年よりも生土神を信敬すること無類なり朝は東雲に垢離をとり神酒を捧げて神供を献ず毎日毎歳無解して三十余年を遡り頃は寛政十戌午年弥住中の九日社壇に詣で睡眠しけるに駿馬に乗じたる老翁源助が枕元に顕れ宣ふは汝朝夕信ずる処の八王子なり此の地、垂迹する事七百余年に至りぬといへどもいまだ神位の免を得ず後今年都に登り神袛伯王家へ訴え神額の免許受くべし永く此の地に垂迹守護すべし必ず疑ふべからずとなり源助夢覚め奇特の思い骨髄にして俄に上京不得止氏子一両輩同道し山川三百里の行程夢路飛行の勇にして神袛伯主白川家に此由奏聞す間もなく神額免許を賜ふ霊夢少しも違わずして神変不思儀のことともなり聊も帰路の山川恙して今神前額神袛伯資延王染筆是なり猶尊神駿馬に乗じ賜ふにより氏子駿馬を用ひ亦生土神の禁制として氏子の者弥生草の餅用ひず又五月幟なし粽なし菊月三十日川魚漁禁ず、尊神此地に垂迹義家朝臣社堂建立は寛治五辛未年なり、文化八辛未年まで年歴七百二十四年に至りぬ。文化八年西暦1811年秋田藩八代藩主佐竹義和公、御迎覧御用日記による。』※かなり自信なし。現地でご確認下さい。
20
裏面碑文…『●豊受皇太神宮…街道筋より西の方当処枝郷西川連に鎮座同処民家格年に是を守護す。当社は五穀豊穣のため慶安元戌子年勢州外宮を奉移し文化八辛未年迠大凡百六十四年になる。●天照皇太神宮…街道筋より東の方当処枝郷中嶋林に鎮座別当修験吉祥院。当地は国家安穏のため右同年勢州内宮を奉移し年数右同断。●八面神社建立以来…昭和五十年迠約八百九十年。施工者渡部竹郎。昭和50年5月19日建立』※資料提供、解読、宮司、禰宜及び篤志寄附者御芳名省略。
21
石塔群。向って左に宝篋印塔。その隣に庚申塔(文化3年)。
22
続いて左から出羽三山塔が2基(慶応2年8月8日、安政3年7月吉日)と馬頭観世音(安政6年3月25日)。
23
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ