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青森県三戸郡五戸町倉石又重舘町。史跡又重城址。五戸川右岸の丘陵地に位置しており、北の水田との比高約40m。代々又重氏の居館。戦国期に五戸郷を支配した木村氏の一族木村秀直が又重に入部して又重氏を称し又重城築城したと推定。九戸の乱において九戸の勧誘を拒否したため九戸勢により攻略。
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壹千石之居城絵図(大正年間又重弥五郎秀俊之居城)。平成15年にこの絵図や標柱が各地に設置されました。地図では本丸(東西約120m×南北約150m)・上ミ舘・カエ館・下モ舘・外舘・中舘・西舘・古舘があります。
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見えにくい&細かいので向って右から分割して掲載しています。
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黄色で囲った部分は「又重氏墓」。
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赤い丸は現在地。
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この地図を頼りに少しだけ探索してみることにしました。
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写真を見ながら歩きます。
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まずは「番坂」を上って行きます。※番坂下に標柱&地図があります。
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この部分です。
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「番坂」上の「下モ町」標柱。このように地図にリンクして各地に標柱が設置されているようです。標柱自体には特に説明はありません。
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「下モ町」標柱横に湧水があります。
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水路開通碑(「昭和9年10月穿鑿百間」発起人:小笠原三太郎、小笠原五郎、服部盛、小笠原佐吉、小笠原幸吉、下村久次郎、佐藤金次郎、下村仁太郎、小笠原光雄、本田勝三郎。工事請負人:宮台の漆戸吉太郎)。
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前の沢から百間運んで来た水路がコンクリートわくに貯水され飲み水となりました。水量も豊富でとても冷たかったです。
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「下モ町」標柱と「中町」標柱の間の高台(外舘側)に神社がありました。
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何神社かはわかりません。気田勇喜所有の稲荷神社かな。憶測ですが。
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立派な建物です。
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ちなみにこの神社は地図にはありませんでしたがこの付近になります。
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下モ町-中町-前小路-上ミ町。
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この通りです。ほぼ昔(地図)のままに、地名・地形・道筋が残っており、城下の面影をしのぶことができます。
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「中町」・「前小路」標柱。徒歩でも見逃しそうな標柱です。よって全部(24本)は紹介しません。とりあえず本丸は目指さないとね。
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「儒童寺跡」。儒童寺は天正4年に又重城の城主が、幼くして病死した子を弔うため、また、地域の子どもたちの教育のために寺子屋のような施設を建てたのが始まりとされます。現在、儒童寺は現在国道454号線沿い、古川代にあります。
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ここです。
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「堀合」標柱付近から見た「下モ舘」標柱前の坂。
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写真右手の土手の上に「下モ舘」標柱があります。
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「堀合」標柱。
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「本丸跡」。本丸跡も標柱のみで、現在は普通の宅地となっています。本丸跡地に住んでいるお婆ちゃんが色々とお話をしてくださいました。ありがとうございます。
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さて、問題です。「南門跡」標柱はどこでしょう?
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わかるかな?
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ここです。なかなか難易度が高いです。
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宝さがし気分で標柱を探すと楽しいかも知れません。
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南門付近にあった小祠。
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この付近です。
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蒼前堂の隣りには舘組霊園。
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以下、又重村についてです。長いのでスルーしてください。
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慶応3年の給地は八木橋徳次郎134石余・又重忠左衛門83石余・伊藤吉代見56石余・大須賀九郎右衛門53石余・小菅佐宮52石余・吉田道衛47石余などのほか、又重牧野守2人が各5石。また、免地高は又重牧の野守寅蔵8石余・同宇之助7石余。村高は「貞享高辻帳」430石余、「邦内郷村志」「天保郷帳」775石余(うち給地535石余)、「天保8年御蔵給所書上帳」778石余(御蔵高243石余・御免地高15石余・給所高519石余)、「安政高辻帳」621石余、「旧高旧領」778石余。「邦内郷村志」によりますと家数198、本村を除く集落別内訳は冬名7・盛田9・外館11・下町22・中館5・遣水15・北向29・水上3・戈助1・沼沢7・山田6・太田24・谷地中13・高屋3・宮台5・古川代22・館向5・芦名沢4。なお馬数の記載がないのは又重牧の関係と考えられます。「本枝村付並位付」によりますと家数156、位付は中の中、集落別内訳は本村6・外館7・下町15・中館6・冬名7・森田7・遣水14・北向23・沼ノ沢7・水上2・古川代19・宮台4・谷地中12・太田19・山田6・館向2。国誌に又重は旧は鑓水と称したとあり本村は鑓水のように記載されていますが、「本枝村付並位付」によりますと鑓水は枝村とされていることから、本村は下町を含めた現在の館町と考えられます。館町は又重城とその城前に発達した館集落的様相を呈しており、現在の通称名として上ミ町・下モ町・中町・前小路・後小路などの町名が残っています。地内の草分け的集落としては冬名があります。当地は鑓水の肝入の本田家の祖先が九戸の乱の落武者として最初に草鞋を脱いだ場所といわれており、古い館跡の場所と伝えられ、古神社があります。天明3年の大飢饉における当村の惨状は「天明三年卯凶作之事」によりますと「又重村中ニ家数百七拾軒余有之候処ニ、牛馬不喰者ハ山田五軒、太田ハ弐軒、鑓水弐軒、館町畑ケ中壱軒、小川代弐軒、〆拾弐軒、是ハ牛馬不喰也」とあり、大切に飼養していた牛馬を食して飢えをしのぎ、かつ「又重村ハ能キ村方之内ニテ餓死人半分也」とみえています。古川代には五戸通の鍛冶小頭の竜助がおり、鍛冶職を支配。支配範囲は不明ですが、文化13年に五戸村応助に鍛冶小頭職を譲渡していることが知られています。当村の北から下市川村の西に至る五戸川左岸の丘陵地には藩営牧場の又重野が開かれていました。規模は長さ6里・横2里ほど。開設年代は不詳ですが、永正年間には「中伊手」「またしげ」(馬焼印図)の牧がみえており、この頃には既に開かれていたと考えられます。藩営牧としては藩主南部重直代に又重兵部より献ぜられ、藩営牧として開設されたものとも、あるいは正保3年に開設されたものともいいます。馬数は宝暦5年父馬1・母馬58・2歳牝10・当歳牝12・当歳牝5の85疋。明和6年は父馬1・母馬67・2歳牝9・当歳牝8・当歳牡6の計91。牧野に由来する地名に牧内・牧内沢・間木などがあります。また馬の調教・訓練に利用したとみられる馬場跡が五戸川右岸の館町と、冬名の近くの丘陵地に残っています。又重牧の野守は当村に助蔵、宇之助の両名が居住し、各々知行高5石のほか、助蔵には8石余、卯之助には7石余の免高が給されていました。由緒書上(柳沢家文書)によりますと、卯之助の先祖小太郎は元禄17年の任用に始まります。文政4年には野守の宇之助・茂兵衛の両名が牧袋の普請と飼草建場の新規土手普請を願い出ています。天保7年野守両人は備荒用の囲稗30石余を貯穀。地内の通称「はなれ森」には、八郎太郎が五戸川を堰止めて丘をつくったという伝説が残されており、牧内の牧内沼には沼主の怪魚が潜んでいたといい、館町には大火の時空を飛んだ「飛び権現」がいたと伝えられます。地内の支村の北向には丹内沢の上流から引水した「門堰」用水路が流れています。明治元年弘前藩、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て同4年青森県に所属。明治初年頃館町に私塾があったといわれ、明治9年鑓水の通称学校屋敷に又重小学が創立(寺院を仮用して発足)。
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