1
岩手県盛岡市小鳥沢。小野松観世音里宮です。奥宮は別記事にしております。
2
小野松観音鳥居建立御寄付御芳名。平成2年3月吉日。
3
手水石(明治11年1月17日)。
4
寄付御芳名。平成18年8月吉日。
5
小野松観世音略縁起…『小野松観世音菩薩は、後奈良院の御宇、萩原左中将清成郷勅勘を蒙り、東奥に下向せり。時に天文21年(1552)壬子歳7月10日、いまの鵙逸村のうち北上川舟場の瀬と申すところに住居し給う。しかるに清成の実子藤若と申す方、行年13歳にして薨去し給う。よってここに舟場の瀬より砂を集め、肌の守りに正観音の金像御長壱寸八分の尊体を髻へ結び添えて埋め給う。しかしてより以来、このところ毎夜光明赫々として、次第に瀬の辺広がり、淵となる。すなわち観世音、この淵に住し給う故に、いかなる洪水にも、右藤若の廟所の砂流れ散ることなし。そのころより舟場の瀬を、里人名づけて若子ヶ淵と称す。同22年(1553)癸丑3月、観世音は舟場の瀬より、大悲の光を放ち葎館山を飛び越し給いて、鎌田和泉源親行が山荘のうち小野松岩館前というところに、3年居住し給う。その程は、凡人の容にして栖み給えり。和泉の祖父信継は、同国信夫郡鎌田村より、永正17年(1520)庚辰歳4月9日、岩手郡葎館へ引移り住居すといえども、大永2年(1522)壬午8月8日、山津波涌き出で、葎館の西側北上川に押出し、水勢を支え西の方川筋となり、このころより川又と称す。さる程に鎌田和泉は葎館を退き、冨田と申すところへ移住して相続す。清成は、程なく赦免ありて帰京す。そのとき、藤若の持鏡一面と守り刀とを鎌田氏へ授与す。そののち弘治元年(1555)乙卯正月17日、観世音は親行の居宅へ引き移り給う。それよりまた星霜を経て、小野松のもとの岩館へ御堂一宇を草創して勧請し奉る。そのころより冨田を改めて、飛田と称す。右の因縁に随って、祭礼は毎年7月10日に定めて、これを祠る。親行、あるとき不思議の霊夢を蒙り、御堂を1間4面に再興して祈請するに、願として満たざるはなし。日に増し救世の徳あらたなれば、貴も袖を連らぬ賤も踵を継ぎて、参詣の輩、盛んなることの市人のごとし。そもそも観世音の利益を案ずるに、もとは正法妙如来にして娑婆世界の施無畏なり。三世を利生する菩薩の超世の願、十万の薩捶に増さる。一度歩を運べば、穢土より浄土に詣初門なり、嗚呼、大慈大悲超世の本願は渇仰して帰依すべし。聖観自在菩薩は、慈悲の妙体を分って、髄願応同し給う。その尊容は、左には未敷の蓮華を持ち、一切衆生の妙法蓮花の未だ敷かざるを、まさに開かしめんとし給う容なり。右の手には、大悲無畏印、南方無垢世界の教主観世音、三十三身に分って化現して衆生を済度し給う。丹誠を凝らし低頭礼拝の輩には、利益を施し給うこと、疑なきものなり。大悲の感応は、容の響きに応ずるがごとく、利益限りなきこと、月の水に移るごとし。深く信じて疑うなかれ。永禄3(1560)庚申7月源親治遠孫、岩手郷士 小野松観音別当始祖 鎌田和泉親行』
6
堂宇。
7
向拝。
8
向拝扁額。
9
向拝鰐口。中央に九曜紋。
10
堂宇内。駒形神社とあります。
11
中央に祀られていたのは馬頭観音ではありませんが神仏習合の形で駒形神社としているのでしょう。
12
鳥居以外は観音堂といった感じですけどね。
13
松園観音の万体仏のように手彫りの観音像がいくつも安置されています。
14
「小野松金山・佐藤鉱業所」と書かれている札。
15
「昭和16年旧7月10日遷座」。
16
堂宇にも上記とまったく同じ小野松観世音略縁起が貼ってありました。
17
境内の観音像。
18
18.5
不明の石祠等。
19
「聖観世音・大日如来・萩原明神」碑。上部にそれぞれ梵字。
20
裏面碑文(下部に二頭の馬の絵)…『萩原左中将清成之子藤若君三百七十四年忌辰建之時大正十二年七月十日也長山松太郎敬白』
21
馬頭観世音碑。
22
榮徳大山祇大神。
23
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ