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六戸町鶴喰字明堂。存應天神。鶴喰月窓寺南方の水田地帯の中に境内(200㎡)が広がっています。神社の入口が非常にわかりにくいです。最初は参道入口がわからずに戸惑いました。ちなみに参道入口の写真がこちら(下)です。これはわからないですよね。
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住所は「鶴喰」=「つるばみ」といいます。『青森の伝説』によりますと、『鶴喰に、シマツ田という所がある。それは、八戸の櫛引八幡宮を守る普門院の妾腹の子がここに住み、普門院に謀反を企てているといううわさがあった。普門院は家来を遣わして、鶴喰の村はずれのたんぼで、その子を殺させてしまった。しかしあとでうわさを知って、これはしまったと後悔し、ねんごろにとむらった。その田を今でも「しまっ田」とよび、田の持ち主にいろいろな祟りをするといわれる。』とあります。
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2間4方の社殿は奥の院も設けられた総檜造りで、昭和49年4月17日落成。社殿の由来は承応2年(1653)に起こった存応一家惨殺事件に端を発しています。存応一家惨殺事件(諸説あり)についての説をすべて述べるとかなり長くなりますので、下記にて簡単に紹介はしますが、詳細については六戸町史上巻(P481-488)の明光山月窓寺の縁起の項を参照ください。
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存応(鶴喰の彦次郎)は櫛引八幡宮の別当普門院の姉婿で、その社領である鶴喰106石5斗8升の地を管理するために居住していた鶴喰村の肝入。近郷の村人からは存応様(号)と呼ばれ崇敬されていました。文武弓馬の道に秀で、村の子どもたちのために寺子屋を開いたり、医術の心得をもって病人の治療にあたり、更には加持祈祷も行うオールマイティーな修験者でした。鶴喰の地名は存応が六戸川に集まる鶴にエサを与えて食べさせていたことから命名されたとも云います。村には存応の家に足を向けて寝る者はいなかったそうです。存応の人気を妬んだ下田村阿光坊に住む修験者三光院の策略(阿光坊にあった下田の神明宮別当三光院が神明宮前で存応が下馬・拝礼をしなかったとする件)により、存応一家は八戸八幡村普門院源慶が放った7人の刺客によって惨殺。その後、存応の亡霊が現れ関係者に祟りますが、普門院源慶は存応が無実だったということがわかり、月窓寺を開基してその霊を供養しました。
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現在、存応天満宮が鎮座する辺りを通称「しまつ田」と呼びます。それは存応をここで始末したことによるといいます。その場所に、刺客7人衆のひとりの末裔である工藤某が先祖の罪滅ぼしにと、存応親子命日の旧暦3月25日にあわせて昭和49年4月17日に社殿を建立。この時、工藤某の美挙に感激した松橋善太郎は神社の敷地として水田200㎡を提供。外陣にはかつて社殿建立に至るまでの経緯が書かれた紙が貼られていました。その内容は「工藤さんは貧しい家庭に生まれ、十三才のとき北海道に渡って卵の販売などをし、十九才で東京に出て卵販売業者に奉公した。三十才で独立したが経営も順調で昭和二十七年には東京都卵業者協会長に就任、現在は東洋鶏卵株式会社の副社長。工藤さんがこのお宮を造ろうと決意した。工藤さんの先祖は存応親子を殺害した七人衆のうちの一人といわれ、この伝説を幼いころから聞かされ、先祖の罪滅ぼしに存応親子の霊をまつりたいと念じてきたが、この度ようやく念願のお宮が完成した。」というもの。
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奥の院には高さ20cmほどの木彫神像が3体並べられています。中央の神像はかなり古いもので、両脇の神像よりも歴史を遡ります。御顔は白く、錦布の狩衣を着ており、恐らく菅原道真公の尊像と考えられます。左側には台座に乗った存応公、右側は妻のカネ子の女神像と考えられます。存応公と道真公の人生には共通点が多く見られることから、今日では「存応天神」と呼ばれ、文学・学問の神として道真公と共に祀られていると考えられます。毎年11月1日は村中総出で存応公の魂祭りを行い、4月25日には櫛引八幡宮の神職が来て祭典を行います。9月25日には集落の大祭として地元の人たちで御神酒上げをして、今なお存応一家の悲話が語り継がれています。鶴喰鶏舞(六戸町文化財指定)は寛永年間に代官として居を構えた存応が惨殺され、霊を供養するために月窓寺が建てられて鶏舞が踊られたことに由来するといいます。鶏舞は踊り念仏の一種であり、五穀豊穣・無病息災・家内安全を祈願する踊りです。踊り念仏とは、念仏を唱えながら先祖の精霊を供養する踊りですが、鶏舞はそれに加えて集落の繁栄と家内の福を祈る祝いの舞として継承されています。なお、月窓寺の存応供養塔は元来天台系の神宮寺であった月窓寺が禅宗に改宗するに伴って宗派の争いがあったことの反映とも云われています。
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向拝蟇股・木鼻。
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向拝神額「存應天神」。
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石灯籠一対(平成12年4月25日)。
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狛犬一対(昭和60年11月)。
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