1
八戸市湊町上ノ山。浄土宗護國山十王院。
2
寺院名の由来はここにかつて十王堂があったからであるといいます。位牌堂には閻魔大王像と見られる木像が2体あり、そのうち1体は十王堂時代からのものと伝えます。
3
「八戸祠佐嘉志」には、寛文7年、八戸藩初代藩主南部直房がゆかりの地蔵菩薩を中里村(岩手県岩泉町)から移し、お堂を建立したのが始まりであると記されます。閻魔大王が地蔵菩薩の化身とされることから、十王堂のあるこの地が選ばれたと考えられます。
4
庵主には圓利が入り、開山とされています。なお、地蔵像は後に二十八日町に移され、更に朔日町の来迎寺に移りました。この地蔵像とは別に、湊町出身で応物寺を再興した津要玄梁作の地蔵菩薩が伝わっています。享保13年の作で、胎内の空洞には津要の墨書などが納められており、市の文化財に指定されています。
5
また、八戸市出身で後に曹洞宗管長にまでなった西有穆山禅師の遺品も多数残されているそうです。
6
6.5
浄土宗十王院史略記(当代30世紘宇)…『【宗旨】浄土宗【寺院名】浄土宗護國山十王院【宗祖】法然上人(源空)【開宗】鎌倉時代 承安5年(1175)【本尊】阿弥陀如来【十王院本尊】八戸藩南部家より拝領 元禄15年(1702)【稱名】南無阿弥陀佛【開山】圓利大徳 寛文7年(1667)【開基】八戸藩初代藩主南部直房公【教義】阿弥陀如来のお誓いを深く信じ、「南無阿弥陀佛」を称えることによって、どんなおろかな罪深い者でも一切の苦しみから救われ、明るい安らかな毎日を送ることが出来、そのままの姿で立派な人間へと向上し、浄土に生まれることが出来る教えです。【お経】お釈迦様がお説きになった「無量壽経」「観無量壽経」「阿弥陀経」等の諸経典を読誦致します。【市指定文化財】延命地蔵立像 津要作【札所】御城下三十三観音二十八番札所(聖観音)【寺宝】双盤 為直房公三十三回忌 施主 齢松院【供養碑】・大般若供養塔 元文2年(1737)・徳本尊者名号碑 天保2年(1831)・弥陀三尊像万霊(人)納骨堂・三界万霊塔(コレラ死者)明治19年・疫病死者之碑 為コレラ死者13回忌【日常法要】御葬儀・回忌法要・水子供養【主要法典】除夜鐘撞・修正会・小正月法要・節分会・彼岸会(春・夏)・御忌会・端午会・盂蘭盆会・新亡幡供養・大施餓鬼会・十夜会・浪切不動尊諸祈願【特別法要】ペット納骨と供養【晨朝念仏】毎朝6時より7時まで自由参加です。』
7
梵鐘。
8
雨乞六地蔵。
9
雨乞六地蔵(江戸期作)…『この地蔵さまたちが「旱天」があまり続いた時には縄紮げにして橋の袂のあたりの川(新井田川)に投げ込まれたので、岩にぶつかったり、岸にかち合ったりしてそちこち怪我をなされているがこれも"お地蔵さま"の一役であった。(雨乞の行事は明治初期まで行れていた)。「石佛の目しひ耳しひ木の実降る」』
10
徳本行者名号碑(天保2年(1831)徳本行者十三回忌建立)。碑材(岩手久慈産)五階石。高さ約2.5m。
11
「南無阿弥陀佛」と刻まれた六字名号碑です。この石碑は「徳本さま」とか「徳本上人の石」と呼ばれています。徳本上人を招くことは、あまり檀家を持たない寺院にとって大きな宣伝効果がありました。恐らく八戸でも上人に来てもらおうと運動していたと考えられ、この六字名号碑建立の許可を得るためにはかなりの時間と努力を要したと思われます。六字名号を唱えれば極楽往生ができると信じた当時の人々の徳本上人へ寄せる期待がいかに大きかったかを碑は如実に物語っています。
12
徳本行者略伝記…『宝暦8年(1758)和歌山県日高郡の農家に誕生。幼名三之丞(通称重助)。天明4年(1784)御坊市往生寺で出家。僧名徳本(近在各地で苦行)。享和元年(1801)摂津勝尾寺松林庵に入る(紀州・江戸を念仏行脚)。文化11年(1814)江戸増上寺の招きにより、小石川伝通院に入る(東海、信越、関東一円を念仏行者として驚異的な布教活動)。文化14年(1817)小石川・一行院に入る。文政元年(1818)小石川・一行院において遷化行年61歳。法名・名蓮社号誉称阿弥陀仏。生涯を法然上人の一枚起請文を命の糧とし、念仏の実践者として将軍家から庶民まで多くの人々から支持を受けた江戸後期の名僧。「お言葉」に「往生とは死ぬることには候わず。往いて生きると書いて候。死ぬが為に申す念仏に非ず、生きて往かんが為に、称える念仏にて候。」「花押」は「鬼」という字を崩したもの。心中の鬼が外へ出て来ぬように円形の「田」の中に煩悩の心をしまいこみ、念仏申す心の田はいつも澄み、月影(月の光)を宿しているということで、「右上方」に「月」を入れている。お歌に、「鬼ころす 心はまるく 田の中に "南無阿弥陀仏"に浮かぶ月かな」とある。』
13
自然石江戸中期墓。
14
元文5年7月14日。
15
15.4
15.8
六地蔵。
16
三次郎坊石像。
17
石像由来…『三次郎坊…生家小島屋(中道家)屋敷は、十王院寺坂下左側、江戸末期柳町に移転。三次郎坊法名は哲道三次郎はその俗名の如し「哲道」寺下海潮山應物寺の傑僧津要和尚の弟子と伝ふるのみにてその伝を詳にせず。ただ家老(としより)の言に哲道晩年廻国の後、帰来し石工に命じ自ら寺坂に立ちて自像を刻せしむと伝ふ。今十王院に在る像は即ちこれなり。"石像刻銘"奉納大乗妙典日本廻國頼往哲道 上分三宝 中分 六道供養 宝暦十辰年十月十五日(1760)湊村中 石切清四郎 「こじま屋聞書」音喜多富壽著より抜粋』
18
コレラ死亡者供養之碑(三界万霊塔)・疫病死者碑。晋善協會(旧佛教会)建立。13回忌に遺族の手によって建立された疫病死者碑もあります。
19
コレラ死亡者供養之碑…『維持明治19年6月函館(松前)に於てコレラが発生し、出稼に行っていた漁師がこの病氣を持ち帰り、湊、八太郎で発病、大流行しました。当地方の患者2373人のうち1318人が死亡しました。又、コレラの後遺症の為後に死亡した記録に表れない死者も多数あります。湊に於ては近世最大の大惨事でありました。「三界万霊塔」は田村氏、小泉氏が施主となり、晋善協会(旧佛教会)がコレラが衰退した同年11月6日に、コレラ死者を弔う為に建立したものと伝えられております。「疫病死者碑」はコレラ死者13回忌に、死亡者の遺族が建立してその菩提を弔った碑であります。質素な碑でありますが当時の湊の人々におきましてはこれが精一杯であり当時の生活が偲ばれる碑であります。』
20
觀自在菩薩(施主柳谷歌吉・柳谷明義)。
21
水子地蔵尊。
22
阿弥陀如来等。
23
墓所の至る所に句碑・歌碑がありました。一部紹介します。
24
「晨鐘に湊しらむや雉子の声(三峰館 寛兆吟)」
25
「南無阿弥陀佛 称うてたてば護国山 見さくる町に朝日かがやく(晨朝念佛講員大久保三藏詠)」
26
「うだる日に 無縁佛に水やれば むさぼる如く吸いこみにけり(十王院廿九世旭誉松海詠)」
27
「ところ得て さすや光もにほやかに 入日を法の庭の夕はへ」(八戸八景地蔵堂(十王院)夕照・延享5年(1748))
28
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ